「ああ喜如嘉(きじょか) かの山村に生まれなば 少しこの世が 楽しくありけむ」 喜如嘉のヒンバームイと呼ばれる小高い丘には拝所があって、そこをさらに登りつめたところにこの歌碑がある。喜如嘉に生まれ育ったならばもう少しこの世の中が楽しかっただろうにという意味なのだろう。作者である池宮城積宝(いけみやぎせきほう)はどんな思いでこの村を訪れたのだろうか。糸芭蕉(いとばしょう)が風に揺れるのどかな村の風景や人々の暮らしの在り方に胸をうたれたのだろうか。 喜如嘉は山々に抱かれるようにして海に向かって拓(ひら)けた集落である。大宜味村(おおぎみそん)にはいくつかの集落があるが、やはり大宜味といえば、芭蕉布で名高いこの喜如嘉が真っ先に思い出されるだろう。ブナガヤという木の精霊(キジムナーとも呼ばれる)でも有名なところである。 柳宗悦(やなぎむねよし)の『芭蕉布物語』の中で「いまどきこんなにうつくしいぬのはめったにないのです」と紹介され、今でこそ珍重されている芭蕉布であるが、そもそも昔の沖縄の人たちにとっての「芭蕉布(バサー)」とは慣れ親しんだ普段着であった。それがいつのころから幻の布と言われるようになったかは知らない。現在年間で200反ほどしか作られないこの布がそういう布になってしまったいきさつはどのようなものだったのだろうか。
その日の朝早く、沖縄本島の北の方に位置する大宜味村喜如嘉を目指して出発した。那覇から高速道路をつかって、一時間ほどで北部の中心地・名護市に着いた。そこから喜如嘉のある大宜味村まではまだまだ距離がある。海沿いにくねる国道58号線をひたすらに走る。思ったより風が強い。沖の方で白波が立っている。波が大きく護岸(ごがん)に打ち付けてはしぶきをあげているのが見える。
国道を少し右に折れた所に、芭蕉の里、喜如嘉と大きく掲げられている看板が目に入る。 ちょうどこの日は村の産業祭りで、公民館に集まっている人たちはその準備に大忙しだった。スピーカーを通してわんわんと歌謡曲が鳴り響き、村はにわかに活気づいていた。山積みにされた野菜が所狭しと並び、後は午後に行われるテープカットを待つばかりとなっていた。 芭蕉布の起源は明らかではないが、少なくとも14世紀ごろには織られていたものと考えられている。喜如嘉以外にも首里、石垣、宮古、竹富や与那国でも盛んに織られていたらしい。第二次世界大戦のため、ここ喜如嘉での芭蕉布の生産は一時途絶えるが、戦後まもなくして平良敏子(たいらとしこ)さんらの尽力によって復興される。そしてそれが現在の芭蕉布につながっていくことになる。
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