宮古上布といえば言わずと知れた日本の四大上布の一つである。その昔は薩摩上布とも呼ばれた歴史を持つ。といえば、琉球への薩摩侵入がこの上布の運命を大きく左右したことが分かるだろう。重い人頭税(じんとうぜい)の下、上納布として歩み出さなければならなかった宮古上布の歴史。皮肉な話ではあるが、薩摩のその圧制ゆえに宮古上布は着実に洗練されていったのである。その美しさ故に役人達の目に留まるところとなり、島の女達の当時の哀しみを今もなお伝える布だというと笑われるだろうか。 今では年間に10反ほどしか生産されない、まさに最高級の麻織物である。今年度の反数は今1月現在で9反だという。旅に出る前に読んだ、少し古い文献には「年間で30反に減った」と危惧(きぐ)する記述があったから、この現状には驚いた。やはり年々その数は減っていっているようだ。 「宮古の糸は世界一よ」と垣花さんは言う。垣花貞子(かきはなさだこ)さんは宮古上布の検査員を18年つとめている方だ。以前に参加したアジア苧麻会議で、宮古の糸について発表した際にも改めてそれを感じたのだという。その糸を経(たて)にも緯(よこ)にもに使用して織りあげるのが宮古上布なのである。糸を作るのは専ら宮古のおばあちゃんたちの仕事である。しかし、それも年々減っているのだという。糸は苧麻の繊維をしごきとり、それを手で撚って作られる。手績(てう)みという作業である。昔は織り手が年を重ねると、次第に糸の績み手になっていったというが、今ではそんな慣習はない。おばあちゃんたちには年金があるし、ゲートボールもあるから、苦労していた糸績みのことは思い出したくないのだと語ったという。 糸績みから仕上げの砧(きぬた)打ちまですべてを手作業によって行う。糸を作ることから始めると一反を仕上げるまでに一年以上かかってしまう。そのため組合では分業でその作業を行っている。十字絣と呼ばれる絣を針で柄あわせしながら織り込んでいくため、熟練した職人でも一日に20cmずつしか織れないというのに、他の作業まで、となると、大変な負担が織り手の肩に重くのしかかることになる。それもあって組合には各工程に一人ずつ職人がいるのだという。 奥原義盛(おくはらよしもり)さんは現在組合でただ一人の砧うちの職人である。三年前まではごく普通のサラリーマンだった。同僚に誘われてこの世界に足を踏み入れることになり、仕事をしながら、講習に通ったという。木槌(きづち)の重さは、3.6キロくらい。昔は4キロほどあったという。その木槌を振り上げ、台の弾みを利用して布を叩いていくのだ。 「2時から砧打ちをしなければ間に合わないから、、、6時くらいまでは叩いているから」といって奥原さんはそっと部屋を出ていった。どうやら見に来ても良いということらしい。細やかな人なのだろうなと思う。気遣いにあふれた室内にはまだその余韻が十分に残っていたが、それを破るかのように遠くの方で高く澄んだ音が聞こえだした。 奥の部屋へ移動し、砧打ちを見せてもらう。かーん、かーん、と響く音が耳に心地よい。はちまきのように巻かれたヘアバンドが額を伝う汗を吸い込んでいく。着尺で2万回程打つのだという。木槌のあとが布に残らないように、中心を布に垂直におろすようにして打つ。熟練した職人でないと難しい。慣れない人がやると布に三日月のようなあとが残り布が台無しになるのだそうだ。何年か前、砧打ちの職人が倒れ、宮古上布の存続が危ぶまれた時があった。今でこそ各工程に一人ずつ職人がいるとはいうものの、そのことに不安を感じない訳ではない。
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