久米島紬1
久米島紬イメージ画像
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真謝のちゅらふくぎ
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桃原禎子さん
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 那覇からフェリーにて久米島へ。あまり揺れることもなく、4時間くらいで島に着いた。私にとって初めての久米島への旅だ。夏に運行する高速船だと二時間弱では島に渡れるという。日帰りも可能なのだそうだ。シーズンオフのこの時期は日帰りが出来ない為、その夜は島に宿をとることになっていた。ゆっくり取材ができるということからか気は幾分か楽であった。


 島に降り立つと、空は今にも泣き出しそうな顔色。曇天(どんてん)がどこまでも続いている。青空は望めなさそうだ。はやる気持ちを抑えつつも、とにかく雨が落ちないことを祈るしかない。
 タクシーに乗って久米島紬ゆいまーる館へ向かう。ちょうど休憩時間にかち合ってしまうことが予想されたため、しばらく館の近くの集落内を散策することにする。
 その集落は地名を真謝(まじゃ)といって、ちゅらふくぎ群で有名な場所であることを後に知った。ちゅらとは方言で「美しい」、という意味である。ふくぎの木々はあいにくの曇り空の下ではあったが、つやつやとした濃い緑色に揺れていた。晴れ渡った青空の下ではさらに美しく映えるだろう事が思われた。沖縄ではこの木の皮を煮出して黄色の染料をとるのだ。また、防風林としての役割も果たすこの木は屋敷を囲むようにして植えられる。樹齢何百年というふくぎの群は集落のあちらこちらに点在していた。舗装された道を少し脇にずれると、白い砂利道が顔を出す。路地を曲がるごとに静けさの増す集落内に砂利を踏む私の足音が響き渡る。ふと耳を澄ますと聞こえてくるシャートントントン、という音。その音の先には、縁側にほど近い部屋に置かれた機(はた)で作業する女性の姿があった。古い瓦屋根の木造の家にこんもりと生い茂ったふくぎの木々。そして縁先の機織りの音。あつらえられたかのような光景にしばらく立ちつくしていると、女性は部屋の奥へと消えていった。我に返り、足早にその家の前を通り過ぎる。入り込んだ路地で手に入れた風景にはなぜか後ろめたい心地だけが残っていた。


 組合を訪ねると、久米島紬・生誕500年ということで、組合の多くの方々は京都に出かけているとのことだった。500年もの間守られてきた見事なまでの手わざの世界。その織物に関わる人々の話を伺いたいと、隣接する工房を訪ねることになる。
 指導員の桃原禎子(とうばるていこ)さんにお会いする。すぐに、どうぞ、と機の方へ案内される。こちらからお願いするまでもなく、機に座って、織りを見せてくれる。機には黄色い糸がかかっていた。ふくぎの黄色よりももっと渋い感じの黄色である。ヤマモモの木の皮とナカハラクロキで染めた糸だという。それを地に、紅露からとった渋めの赤と泥染めの黒、そして藍が映える。柄は、クジリゴウシ(崩れ格子)、マルブサー(丸星)など、いくつかの伝統柄が組み合わされて織り込まれていく。
 桃原さんは、高校を卒業してからすぐに本土へ渡った。21歳の頃に沖縄へ帰ってきて、南風原の工芸指導所に一年半ほどお世話になった。その後久米島へ帰る。それから久米島紬を織り続けて25,6年くらいになる。なぜ久米島紬だったのですか。私のぶしつけな質問にもいやな顔をせず答えてくれる。「母親が織っていたけど」、と手元を見やり、トントンと打つ。小さい頃から母親のそういう姿を見ていたのだという。「その時は何とも思わなかったけどね」と続けた。そうはいっても、その経験があるのとないのとでは大きく違うのだということを、染め織りに関わる人々を訪ね歩いてきて痛いほど感じていたから、桃原さんの話にも深く納得がいくのだった。幼少の頃に自然に刷り込まれていく母の記憶。手の記憶。それが時間を経ることによって少しずつ動き出すのだろうか。身体の中でふつふつと静かに、しかし確実に存在する記憶なのである。

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