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苧麻 |
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那覇から飛行機で一時間。石垣島が見えてきた。島はエメラルドグリーンの海に彩られ、リーフの内側で波は穏やかに揺れる。晴れた日のその海の美しさといったらない。その海上に八重に連なる島々の多くは、この石垣島を経て道が拓かれている。 石垣も他の離島同様、17世紀の初めの薩摩の侵攻によって圧政が強いられた。よって、八重山上布は貢納布(こうのうふ)としてその歴史を刻むことになるが、明治終わりごろ、悪税と呼ばれ、庶民に重くのしかかっていた人頭税(じんとうぜい)は廃止される。八重山上布は第二次世界大戦で一時その生産が途絶えるものの、戦後数名の職人によって細々と織り続けられていたという。 別名白上布とも呼ばれるこの美しい布は、苧麻(ちょま)という植物から採れる糸を素材にして織られる。絣柄は、手括(てくく)り、または捺染の二つの方法で織り込まれていく。元来は手括りのみであったが、1970年代以降に刷り込み捺染染色(なつせんせんしょく)の技術が発達し、次第に手括りの技術は衰退していくことになる。 |
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新垣幸子さん |
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新垣幸子(あらかきさちこ)さんの工房を訪ねる。新垣さんは、手括りによる染色を復興させた、今最も注目されている八重山上布の作家だ。これまでにも様々な賞を受賞し、古典の復元作業やそのオリジナルな作品は高く評価されている。意欲的に新しいことに挑戦している姿は既に多くのメディアで紹介されている。 染織に関わることになったきっかけを伺うと、新垣さんはゆっくりと話してくれた。 生涯を通して出来る手仕事がしたいと、ある日大城志津子(おおしろしづこ)先生の工房を訪ねる。何よりも先生の人柄に惹かれたという。先生のもとで学びたいとの思いは強くなるが、その時、工房には弟子入りしたいという人がすでに何名も待っている状態であった。「私には時間がない」と、新垣さんは県の工業試験場の門を叩く。それまで勤めていた仕事を辞め、工業試験場に行くと、本当に来たのかと驚かれたらしい。そのころは家業を継ぐ人以外が織りを志すというのは珍しい時代であったのだ。しかも仕事を辞めてまで来たのだからさぞ向こうはびっくりしたのだろう。 そこで一年間勉強をした後、故郷の石垣島に帰る。上布を、と限定して始めた織ではなかったが、ごく自然な流れで八重山上布に関わることになったのだった。工房に入ったものの、そのころは捺染染色の方法しかなく、新垣さんは日々戸惑いを感じていたという。小さな柄はともかく、大きな柄になると、型染め、プリントのように見えて、どうしても好きになれずにいた。 上京した折に日本民芸館で見た、たまたま展示されていたという八重山上布。そこで様々な色の手括りの上布を目にする。貢納布として納められたであろう布達がそこには顔をそろえていた。「やっぱりいろいろな染めがあったんだ。よし、私はこれでやっていこう。」と心に決めた瞬間だった。 |
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| 新垣さんの工房ではもっぱら手括りにこだわっている。手括りだと染料を選ばないため、いろいろな色を用いることが出来るのが若い人にも人気がある理由だという。「この島では、照りつける太陽光線のおかげで植物が強い色を持ってくれている。その植物染料を使わないなんてもったいない。」 植物は皆同じトーンを持っているからどんな組み合わせでもなじむのだという。いやな色というのに出会ったことがない、というのもおもしろい。 若い頃は、「思った色が出ないな」、なんて事もあった。それが今は「染まった色を自然からいただいているという感じ」だという。新垣さんの中で何かが変わってきているのだろう。あくまでも風土を生かした染め、織りにこだわりたいのだと話す。
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