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手前より大城廣四郎さん 大城一夫さん |
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琉球絣の産地として名高い南風原(はえばる)町は、沖縄で生産される絣の90パーセントを占める割合で生産をあげている。「かすりの里」をかかげるその町に工房はあった。
大城廣四郎(おおしろこうしろう)織物工場。工房と販売するスペースが設けられた、真新しい建物はひときわ目をひく。車を降りると、風に乗ってふくよかな琉球藍の香りが鼻先をかすめていく。
大城廣四郎さんとその息子さんの一夫(かずお)さんにお話を伺う。
廣四郎さんが織りを始めたきっかけには、母親の仕事の手伝いをしていたという体験があった。「小学校4年生から使いっ走りをしていたからね。」と話す。母親の使いで染色場へ通った。織り手がああだ、こうだ、と話すことを聞いているうち、自然に機織りの基礎は身に付いたのだという。織りについて母親に教わったことはないそうだ。そして廣四郎さんが織りを始めるのは戦後のことである。
終戦は24歳。小学校6年生から機織りをしていたという奥様は、月に25反を織り上げたという。戦後は釣り具屋で手に入るロープをほどいて、それを素材に売る為の布を織っていた。糸が手に入らない時代。食べるために布を織る。そんな苛酷な時代にあっても、手仕事は確実に伝わってゆく。
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廣四郎さんは身体の調子がいいときは機(はた)にすわってゆっくりゆっくりマイペースで織っているのだという。かつての廣四郎工場では月に300反の生産をあげたこともあった。45人の織り子を抱えたこともある。戦前の織り子さんはとにかく仕事が早かった。「それにくらべて今の人は下ごしらえもあまりうまくないねぇ」、といって笑う。
70代の中頃までは4日に一反の割合で織っていた。一日に4メートルくらい織った。
夜は糸巻きをして次の日の準備をしていた。そうやって織りが終わってもまだ織りのことを考えていたのだ。
琉球絣の柄はその組み合わせなどで600から700はあると言われている。「自然や、生活に密着したもの、うつわや動物、人のかたちなどがある。その組み合わせを僕たちは織っているんですよ。」と一夫さん。身近なものを抽象的な図柄で表現した絣の魅力は尽きない。その絣の紋様が伝えられてきた背景にはこういう人たちの力があるのだ。
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「先日成人式で孫が着たんですよ」、と廣四郎さんが言う。その視線の先の衣桁(いこう)には着物がかかっている。深みのあるピンクのグラデーションに様々な紋様が織り込まれた、鮮やかな着物である。聞くと、廣四郎さんが織ったものであるという。孫のために布を織る。なんとすてきなことだろうか。「家族のために布を織るのは楽しいですよ。」廣四郎さんはそういった。
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一夫さんは高校を卒業してすぐに織物にかかわるようになる。それまで織りを、ということは考えなかったが、小さい頃から家の手伝いをしていたので、自然に織りの世界へ入っていった。本土就職をする同級生が多い中で、一夫さんは家業にたずさわることになった。
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廣四郎さんの孫にあたる拓也(たくや)さんも、同じように織りの世界へとひきこまれていく。本土で一年間他の仕事に就くが、帰ってきて織物をやるようになる。「自分たちがやってる仕事というのはやってみないとわからない。」一夫さんは言った。拓也さんも他の仕事に就いた後、やはり織りにかかわっていくことになった。
「やめたいと思ったことはない。」
廣四郎さん、一夫さんの二人とも、口をそろえてそう言った。一夫さんはともかくとして、廣四郎さんまでがそう言うのには驚いた。あの戦後のもののない時代、織物をする人たちにとっては過酷な時代であっただろう。そのつらい時代にもやめたいとは思わなかったという廣四郎さん。
「親父は寝て起きたらすぐ機だのに」
一夫さんが笑いながらそういう。側で廣四郎さんの笑顔も揺れる。
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