首里織1
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首里桃原町の首里織工芸館

 首里は坂道の多いまちである。その上道は曲がりくねっているし、方向を定めて歩いているつもりでも反対側にでてしまったり、とんでもないところにぶつかってしまうことはしばしばである。しかも路地が多い。「首里はねぇ、道が狭いから行きたくないなぁ。」とタクシーにさえ敬遠されてしまうこともあった。
 首里織工芸館もまさに首里とでもいいたくなるような究極の場所にあった。この先に果たして道はあるのかと疑わしいほど急な坂道を怪訝(けげん)な顔つきでそろそろと降りると、これまた急なカーブへと続く。その先に工芸館はひっそりと佇んでいた。近くには深い緑をしたがえて、昔の洗濯場らしきものがあった。木陰に水がさわさわと揺られている。


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首里織工芸館の商品
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 工芸館の中にはいると後継者育成事業の研修生達がせわしげに機(はた)を動かしていた。今まで巡ってきた織物とはやはり違う。機にかかる糸を見ただけでその違いは歴然としていた。その色糸の鮮やかさ、多様さといったらなかった。首里織は色と技法がたくさんあるのが魅力なのだと聞いていたから、実際それらを目にして思いは一層強くなっていった。さすが王府の御用達(ごようたし)の布である。たくさんの色に彩られながらも、上品な風格を備えているように見える。
 ここでは首里織の作業工程を追ったビデオを見ることが出来る。思わず呆然と見入ってしまうほどに手の込んだ織の技法の数々に圧倒されていた。
 琉球は、その昔、東南アジアや中国との交易が盛んであった。その時代は大交易時代として名高い。人や物の交流によって、様々な国の、様々な文化が混じり合い、琉球という風土に育まれて、独自の染め織り物が生み出されていったのだ。琉球王朝時代、城下町として栄えた首里には、優美な織物の数々が生まれ、洗練され、継承されてきた。
 「首里織」という名称は首里にのこる様々な紋織、絣織を総称して昭和58年につけられた。藍染の白絣、紺絣は庶民の、色を多用した絣、紋織は王室や貴族の、といったように、大きく二つの系統に分けられる織物が首里織である。
 また、首里花倉織、花織、道屯(ろーとん)織、首里絣、花織手巾、首里ミンサーなど、分けられていく。その中でも花倉織と道屯織は王室、貴族にのみ許された織りで、首里だけにのこされる技法であるという。
 素材は絹糸、木綿、麻などである。染料には琉球藍、ふくぎ、車輪梅(しゃりんばい)、紅露(サルトリイバラ)などの天然染料、化学染料などを用いる。

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