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言い伝えによると、十五世紀の後半、「堂之比屋(どうのひや)」という人物が、中国から養蚕(ようさん)の技術を導入したという。日本の紬は久米島が発祥の地であり、それが沖縄本島、奄美を経て本土へ伝えられ、大島紬、久留米絣などのもととなったという。明治四十年には地機(じばた)から高機(たかはた)へ、手結から絵図式へとその形を変えながら、次第に現在の形に近いものに定着していったようである。明治時代の後半に貢納布(こうのうふ)制度が廃止され、それから久米島紬はやっと庶民のもとにかえり、親から子へと引き継がれてきたのだ。
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ゆいまーる館の工房内 |
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館の中庭 ここで砧うちをおこなう。 |
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桃原さんの家にも機はあるが、家ではあまり織らないのだという。最近では指導員という立場もあって、一年に一反ほどしか織れないそうだ。「本当は一ヶ月に一反織れたら、と思ってるけど。」と、またトントンとやる。今までやめたいと思ったことはない。「融通の利く仕事だから」と桃原さんはいう。マイペースに自分に合わせて進めることができるのがいいと話してくれた。 マイペース、とはいっても、久米島紬の工程はいくつもあって、しかもそれを一人ですべてこなさなければならない。染色をして、括りをして、織りの準備をする。「四反分まとめて準備するからね、初めの一反は調整しながら織るから大変だけど、あとの三反は織るだけだから楽なのよ。」桃原さんの一番好きなのは機に載せてから柄が出る瞬間だという。淡々とした口振りの中にも織の喜びが伝わってくる。 後継者育成事業の研修生、それ以外にゆいまーる館には常に25名ほどの研修生がいるのだという。後継者育成事業の5名の定員に対しても倍の応募があるほどだ。いずれはこの中庭も機を置くことになるという。増築の予定があるのだそうだ。絣括りの為だけの部屋が設けられていることでも、行政の前向きな姿勢が伺える。しっかりとその基盤を支える行政の力があるからこそ、後継者問題もなく、織り手は増える一方なのだろう。 |
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養蚕はこれからの課題だという。今は桑の葉を育てているところだ。現在、糸は鹿児島から取り寄せている。真綿を仕入れてそれから紡ぐ人もいるという。昔は経糸(たていと)、緯糸(よこいと)とも真綿の紬糸であったというが、今は経糸は生糸を、緯糸は紬糸を用いているのだそうだ。 久米島紬に用いられる主な染料は、ヤマモモ、クルボー(ナカハラクロキ)、シーザー(シイ)、紅露(サルトリイバラ)、車輪梅、ゴ染めに使うユウナや、泥染めに用いる、阿嘉(あか)という土地の沼でとれる泥などである。島の草木で染め上がった色糸が工房のあちらこちらにかかっていた。深みのある微妙な色合いが印象的だ。その色糸を組み合わせ、地を織り、柄を織り込んでいくのが久米島紬なのだ。 その特徴である仕上げの砧(きぬた)打ちも、織り上がる度に自分たちでやる。それだけの専門の職人はいない。久米島紬は、染めも括りもデザインもすべて自分でやらないといけない。だから砧打ちもばんばんやるのだという。中庭の方にコンクリートの台が設けられている。あそこで砧打ちをするらしい。写真を見せてもらうが、そこには女性が木槌を大きく振り上げているまさにその瞬間が撮(うつ)されていた。力のいる仕事だろうが、それもすべて自分でやらなければならないのだ。「逞(たくま)しいよぉ」そういって桃原さんはくしゃっと笑った。 |
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館からの帰り道、雨がぽつりぽつりとアスファルトに黒い点を描き始めた。急ぎ足で宿に向かう。辿(たど)り着いた瞬間、ざーっとスコールのような雨が降り出した。その夜は雨音だけが辺りに響いていた。時折隣室から笑い声がもれるばかりの静けさだ。朝に向かって雨足はさらに激しさを増していった。 「明日、船は欠航するかもしれないな、そうなるといい。」 膨(ふく)らみ始めた夜の闇に、ひとり寝返りを打った。
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