喜如嘉の芭蕉布2
喜如嘉の芭蕉布イメージ画像
糸芭蕉 この幹から糸をとる
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糸芭蕉の幹の断面。
喜如嘉の芭蕉布イメージ画像
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山之口貘の詩碑

 芭蕉布会館へ向かう道中、低い屋根の家々が立ち並ぶ中に、揺れる糸芭蕉が目に付く。時期が時期だけに少し葉が枯れかかっているようにも見える。
 会館の一階では芭蕉布の展示やその工程のビデオを見ることが出来る。様々な芭蕉布の製品をそこで買い求めることも可能である。二階は工房になっていて、見学は自由だが、その入り口の方に張り紙がしてあって、写真などは一切禁止とある。階段を上りながら気をひきしめると、順路に従って歩き出す。部屋の中では無駄な話し声や雑音はない。聞こえるのは機(はた)のしゃーとんとん、という音だけ。歩を進めると、奥の部屋の畳の縁の方でせわしげに手を動かしている女性がいた。平良敏子さんだ。根拠はなかったが、直感していた。剃刀(かみそり)を片手に持ち、糸を口にくわえながら手際よく糸芭蕉の繊維を結び接(つ)いでゆく。てきぱきと作業している。とても声をかけられるような雰囲気ではなかった。その見事なまでの手業。しゅるしゅるとかごに糸を送る鮮やかな手つきが今も目に焼き付いて離れなくなる。
 当たり前だが、布を織るためには糸が必要だ。芭蕉布では、その糸を得るために糸芭蕉を植えることから始めなければならない。一反の芭蕉布を織るのに200本の糸芭蕉が必要だという。畑を耕し、育て、そして刈り取り、皮を剥(は)いでとすべて手作業で進められていく。それを木灰汁(もくはいじる)で煮た後、竹ばさみとよばれる道具で不純物をしごき取り除いていく。そうすると白いまっさらの繊維だけが残る。ここまででやっと糸の素が出来る。その繊維をまたさらに均一な太さに割(さ)いては機結(はたむす)びという方法で結びつなげていき糸が完成するのだ。その糸が生まれ出す瞬間にたまたま巡り会った。しかも績(う)んでいるのはあの平良敏子さんである。
 黙々と一心に糸を結ぶ平良さんの周りの空気はぴんとはりつめていた。足音さえも失礼にあたらないかと気になるくらいであった。そこへどやどやとあがってきた団体の中の一人のおじさんがが去り際に「おばあちゃん、がんばってね」と声をかけた。私は息をのんだ。しかし当の平良さんはそんなことは気にも留めずに軽くうなづくと、また黙々と作業を続けるのだった。職人とはそういうものだと無言のうちにもその態度が示していた。
 そうやっていつくしみながら作られた糸を整経し、絣括(かすりくく)りを施してから、染色する。主に琉球藍と車輪梅(しゃりんばい)で染め上げられていく。芭蕉は乾燥に弱いため、夏場でも加湿器は欠かせない。雨を喜ぶ布なのだと聞いたことがある。部屋の湿度が常に80%以上になるよう気を付けながら、絣柄を織り込んでいく。織り上がると、布を木灰汁で炊き、精錬し、水洗いをする。それをまだ乾かない状態のうちに手でのばして仕上げていく。
気の遠くなるような長い工程を経て生み出されていく芭蕉布。何もかもが合理化されていく風潮(ふうちょう)の中、この布が次第に幻の布と呼ばれ始めた所以(ゆえん)が分かるような気がした。
 帰り際、展示されている芭蕉布に再び目を落とす。さっきとはまた違った面もちで見えてくる。手から手へ伝えられてきた手わざが布の中に生きている。
 会館を出ると、行きには気づかなかった碑が目に入った。戦後の沖縄を代表する詩人、山之口貘(やまのぐちばく)の詩碑だ。
芭蕉布を見ると自然に思い出される母親の記憶。東京で貧しい暮らしをしながらも、決して故郷のことは忘れることがなかった、貘の詩が刻まれている。喜如嘉の、というよりも、沖縄の芭蕉布をなつかしんだその詩は、傍(かたわ)らに植え込まれた糸芭蕉をたよりに遠い過去をの日を思い、ほほえんでいるかのように見えた。

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