知花花織2
知花花織イメージ画像

 幸喜さんの話によると、裏地には読谷の場合多くは黄色い紅型が用いられるのに対し、知花花織は紺や緑の裏地が付けられていることが多いのだという。知花は知花なりのしるしを裏地にしろ、他の方法にしろ、さりげなくつけておいたのであるとすれば、また違った角度から歴史を読み直すことが出来るのではないか。そしてゆくゆくはそれが沖縄の中でも「中部は独自の文化圏を形成していたという史実につながれば」と幸喜さんは言う。そこに新しい琉球弧(りゅうきゅうこ)の物語が花開くのである。それは今のところあくまでも仮説にすぎないが、今沖縄市が取り組んでいるこの幻の花織の復元作業は、いずれその時代の中部の人々の様子、時代背景を映し出すことになるのだろう。一つの文化的な出来事が明らかになることで、連鎖して見え始めるものは数多くあるだろうことが分かっているから、余計に熱も入る。部外者の私でさえそうなのだから、実際に携わる方の思い入れはさらに深いのだろう。


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島袋領子さん
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 島袋領子(しまぶくろりょうこ)さんは知花のご出身だ。「この作業所は、家から3分くらいかな」という。幸喜さんとは以前からの知り合いだったという。「街で偶然会って、今何してるのー、っていう程度の世間話から始まって」それが今では知花花織研究会の会長であるから、人との出会いというのは本当におもしろい。
 平成12年8月の作業所の立ち上げ当初から知花花織に関わっている。大学を卒業してから、県の工芸指導所で数ヶ月学ぶ。その後、染織作家の手伝いをしながら織りを学び、それから七年のブランクがあって知花花織へといきついた。その間、またいつかは織物をやりたいなぁ、と漠然と思っていたのだという。だから「このチャンスを逃してはいけない。」と募集に応募したのだ。
 現在作業所につめている研修生は十五名いる。20代から50代と幅広い年齢層である。経験者は少なく、殆どが初心者であるという。一から教えなければならないのは大変でしょうね、というと、そんなことはないという。「みんな覚えが早いから。すごいですよ。」と予想外の返事が返ってきた。勉強中の、試行錯誤の上での織りであるから、まだ今は着尺はあがっていないのだという。もっぱら太めの糸でのテーブルセンターや、壁掛け中心なのだそうだ。
「十年くらいたたないと一人前にはなれないね」と先日訪れた文化庁の方に言われたのだと、肩をすくめてみせる。
 知花花織の最大の魅力は、なんといっても織りはじめから終わりまでの模様が一貫しない、織り手の自由奔放さにあるといえるだろう。気分次第で自由に浮き糸や紋様を展開していくといった、織り手の即興性が布にあらわれる。着る人を想定して織っていたからじゃないかな、と島袋さんはいう。
知花花織が他の花織とは一線を画するところに、その歴史的な背景が大きく関わってくる。他の花織は貢納布(こうのうふ)としての使命を背負わされていたため、御絵図(みえず)などによって厳しい制約がなされていた。一方、知花花織はというと、村の祭祀(さいし)儀礼、特別な日のための晴れ着として、自分たちの為だけに織られたものだったため、着る人をも想定して織り上げることができ、そのため織り手の感性に大きくよるものとなったのだと推測できる。
貢納布として強いられた歴史がなく、着る人の顔さえ見えるのだから、その多様さは計り知れないほど広がっていったのだろう。
 「自由というのは逆にむずかしいんですよ」
と島袋さん。柄が決められていないということは、その感性を織り手側が一手に引き受けなければならない。のびのびと織ることが出来る反面、その扱いには少々戸惑い気味というのが本当のところらしい。たしかに少しも制約のない自由ほど手に負えないものはない。


今後のさらなる研究が期待される注目の織物だといえるだろう。
百年の時を経て、この幻の織物は確実に現代へと息吹をかえしたのだ。

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