読谷花織の歴史は中国と琉球の大交易時代に深く関係している。1372年、読谷の港から一艘(いっそう)の船が中国へ向かい、初めて交易を行う。これがきっかけとなり、琉球と中国の関係が深まっていったのだという。そんな中で東南アジアとの交易も盛んになり、その交易品の中にブータンの花織布があったことから、読谷でも独自の花織が開花することになる。明治の中頃には衰退してしまうものの、昭和39年になって幻の花織は復元され、それをきっかけに再興されていくこととなる。 読谷山花織は紋織の一つで浮織とも呼ばれる。緯綜絖花織(よこそうこうはなおり)、経綜絖花織(たてそうこうはなおり)、両面花織、手花織がある。素材に、絹や綿などの糸が使われる。組合では染めだけは専門の方がやっているのだという。用いられる染料は、フクギや紅露(サルトリイバラ)、ヤマモモ、車輪梅(しゃりんばい)、シイなどの天然染料である。それらの色をかけあわせて様々な色をつくっていく。何回も染めをくりかえすことで、独特な風合い、色合いが生まれだしていく。 直線と曲線とが組合わさった美しい幾何学模様。銭花、風車花、扇花などを基本に、柄を組合わせて織り込んでいく。ぱっと見た感じでは、刺繍(ししゅう)のように見えるが、紋様を浮き出して織っていくのである。読谷山の花織は、裏にびっしりとたくさんの浮き糸が出るため、袷(あわせ)に仕立てなければならない。その昔、裏地には華やかな紅型(びんがた)などがもちいられていたという。 展示室で見た花織は、地模様に絣(かすり)模様が織り込まれている。花織も絣もなんて、贅沢だなぁ、としげしげと見つめる。絹糸は草木で染められ、主張しすぎない絣柄が地に程良いアクセントを加えながら織り込まれている。そして可憐(かれん)に咲き誇る小さな花模様の数々。 私が想像していた読谷山花織とはまったく違っていたことに驚いた。ずっと繊細な織物だった。巧(たく)みな手わざを用いて織り上げられていく読谷山花織。私の中の読谷山花織にはこれから先もずっと澄子さんの笑顔がリンクすることになるのだろう。 そばにあった展示ケースに、紅イモで染められたストールが飾られていた。染めや織りの技術はどんどん向上し、新しい草木染めにも果敢(かかん)に挑戦しているのだという。いつか紅イモ染めが用いられた花織にお目にかかれる日がくるのだろうか。楽しみである。 |