石垣滞在中にはこんなこともあった。タクシーに乗ったところ、その運転手の帽子にミンサー織があしらわれているのに気づく。「それミンサーですか」、と尋ねると、ミラー越しににこにこ顔で「ああ、これね」と話し出した。それから目的地に着くまでの間というもの、ミンサーについての知識をあれこれと披露してくれたのだった。 石垣市伝統工芸館の展示室にある八重山ミンサーを見せてもらう。様々な色糸で織られたミンサー帯は、伝統の基本柄を織り込みながらも、模様の幅を変えたり、ラインを入れたりと、織り手によってその表情は確実に変わる。金城さんが自分の作品は分かるのだといった理由が分かるような気がした。 帯だけではなく、ミンサーを用いた様々な製品も目をひいた。財布やカバン、タペストリーやのれんなど、これなら着物を着ない今の私たちの生活の中にも手軽にミンサーを取り入れることが出来る。伝統は、今このときにも、形を変えてはいるが、根底では連綿と流れている続けている。それを感じた瞬間だった。 帰り際に、組合の方が「竹富島にも行った方がいいけどなぁ」とぽつりとつぶやいた。石垣島を離れた後も、その言葉がしばらく頭から離れなくなる。 再び那覇から石垣へ向かう。今度の旅は竹富島が目的だった。離島桟橋(さんばし)から船に揺られること20分。港からは乗り合いバスが走っていて、場所を言うとそこまで連れていってくれる。予定より一時間ほど早く民芸館に着いたので、その辺を散策する。 去年の8月、初めてこの島を訪れた。夏の暑い盛り、自転車で一周するのだといって譲らない友人に根負けし、じりじりと照りつける太陽の下、ひたすらペダルを漕(こ)ぐことになった。空には雲一つなく、生い茂る緑に両サイドを縁取られた砂利道が、ゆらゆらと陽炎(かげろう)さえ立ち上りながら、どこまでも続いていた。ペダルを漕げば漕いだぶんだけ、青い空を手に入れることが出来た。容赦(ようしゃ)のないあまりの日射しに、持参して来た水は早く尽きた。そのころにちょうど民芸館を通りかかったのだ。ひんやりとした空気が流れることなくとどまり続けるその場所には機(はた)の音だけが鳴り響いていた。喉の渇きも忘れてそこにあった涼しげな布に見入ったあの夏の日のことを、ぼんやりと思い出していた。 「ごめんなさい、遅れちゃって」張りのある声が響く。島仲由美子(しまなかゆみこ)さんだ。小学校の郷土学習で竹富の織物を教えてきたのだという。自分たちで蚕(かいこ)を育て、糸をひいて、今、機にのせたところらしい。待っている間にご主人の島仲彌喜(しまなかよしのぶ)さんにその話を聞いたばかりだったので、八重山毎日新聞に掲載されていた子供達の顔を思い浮かべることができた。ソニー賞を3年連続して受賞したのだという。 「いつかこの子たちが大きくなって、昔こういうことをしたなぁ、と島のことをおもいだしてくれれば」と由美子さんは笑う。 島仲さんご夫妻は25年前に那覇から竹富島へ移り住んだ。それまで過ごした那覇を離れ、お二人の故郷である島に戻ったのだ。 竹富のミンサーの歴史は約300年と言われる。やはり土地によって少しずつだが表情は変わる。織り手によってもすじの入れ方などでまた変わってくる。 竹富のミンサーは元々手締めという方法でつくられていた。手締めで織られたミンサーは締め心地が良いのだと聞いている。経糸の間に緯糸を入れ、刀杼(かたなひ)と呼ばれる道具をさしいれて、それを手前に引き寄せて織り上げていく。力がいる織りである。今では筬(おさ)打ちが主流となっているが、手締めのミンサー帯にこだわって織る方もいるのだという。 話を伺っていると、去年私が訪ねた民芸館というのは、今のこの民芸館へ建て替える際の仮住まいであったことが分かった。蚕小屋を改造して使用していたのだそうだ。 新しくなったばかりの竹富民芸館では、ミンサーやその他の竹富の織物を見ることが出来る。工房では、上布やミンサー、その他の織物を実際に織っている人がいる。ミンサー柄はタペストリーやのれん、幅広帯にも取り入れられ、広く親しまれているということだった。 研修生たちに、「ねえさん」と呼ばれ、頼られている由美子さん。その日がちょうど誕生日で、事務所を訪れる研修生達は口々に「ねえさーん、誕生日おめでとう」、と声をかけてくる。「ありがとーう」と軽快に答える由美子さんの人柄がその光景からも伝わってくる。 由美子さんは母親から織りを学んだ。娘さんも同じように由美子さんの姿を見て織りを志した。そして同じように由美子さんの後ろ姿には研修生達が続いていく。 ミンサーを訪ねての旅であったが、決してそれだけではない、染め織りの伝承の原初的な姿が見えてきた、感慨深い旅であった。 その確かな歴史の流れの中に、人がいて、そして、染め織りが見えた、そんな旅であった。
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