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  琉球政府以前
  草創期
  米軍統治の現実
  復帰へ向けて

1960年代後半になると、しきりに本土復帰が囁かれるようになった。

1968年11月、初の公選による主席、屋良朝苗(やらちょうびょう)行政主席が誕生してまもなく、嘉手納基地で離陸に失敗したB52が弾薬庫付近に墜落するという事故をおこした。事故のあった嘉手納村ではすぐさま抗議集会が開かれた。
翌1969年1月、『いのちを守る県民共闘』は、B52が常駐して1年目にあたる2月4日に、ゼネストによる沖縄県民の徹底抗議を決定した。

日米両政府は、既に返還作業を進めていた。この時期でのゼネストは、両政府にとっても都合の悪いものだった。日本政府は屋良主席に対し、ゼネストは沖縄の復帰を遅らせるおそれがあること、B52の撤去の見通しがあることなどを理由に、ストを回避するよう促した。
屋良主席の働きかけによってゼネストは回避され、佐藤首相は『本土なみ復帰』を示唆。
そして11月、『佐藤・ニクソン会談』によって、72年返還が発表された。

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