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  琉球政府以前
  草創期
  米軍統治の現実
  復帰へ向けて

この時代には、米軍がらみの事故も多発した。

1959年6月30日の石川市の小学校にジェット機が墜落。多くの死傷者を出す大惨事になった。
1969年7月には、沖縄市の知花弾薬庫地域内での毒ガス漏れの事故が発覚。これは国際協定違反でもあった。島ぐるみの撤去運動が展開され、1970年、米国防総省は沖縄からの毒ガス撤去を発表した(レッドハット撤去作戦)。

他にも、交通事故や拳銃の誤射による死亡事件・事故は日常茶飯事であった。しかも多くの場合、加害者の米兵に無罪の判決が下され、被害者への保証も満足に行われないケースが多かった。
生命の危険という不安と、異民族統治への不満の中での生活であった。

1970年、コザ反米騒動が起きる。
米兵による軍雇用員のひき逃げ事故が起こった。現場周辺の住民から不当な取り調べをしないよう抗議の声がなげかけられた。
これに対しMP(米軍憲兵隊)が威嚇発砲。群集の不満が一気に爆発し、騒動に発展したのである。

また、沖縄がベトナム戦争の出撃基地となり、戦闘爆撃機B52が嘉手納基地に常駐するようになると、復帰運動とともに、反戦・反基地運動も高まっていた。

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