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1000年の歴史のなかで浮上する沖縄音楽のミステリーや豪快な音楽史を紹介。いろんな音楽が花開いた歴史の裏にはそれぞれの物語が織りなされていた。偉大な音楽遺産にまつわる不思議をコラムでひもといてみよう。
(参考資料:青木誠『沖縄うたの旅』)
歴史に消えたた元祖エイサー “おもろ”の歌い方は? 八八八六型は、沖縄の感性 八百年の時空を飛び越えて 王朝時代の天才たち 琉球音階はどこから来たの?

■幸地賢忠(こうちけんちゅう)(湛水親方-たんすいウェーカタ-)<1633〜1683>

〜沖縄古典音楽のバッハ〜

 薩摩支配のもとで琉球の人々のこころはすさんだといわれるが、このころ歌舞音曲は盛んになった。そんな社会背景のなかで湛水親方は大和諸芸能がはやり出したために絶滅寸前だった琉歌をよみがえらせ、古歌を復活させた。またサンシンの奏法と歌を保存させた。
 幸地賢忠の作品→『竹田節(チクデンブシ)』『首里節(スイブシ)』『ジャンナ節』『諸屯節(シュヅウンブシ)』『暁節(アカチチブシ)』『早竹田節(ハヤチクデンブシ)』


■玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)<1684〜1734>

〜沖縄古典音楽のワグナー〜

 玉城朝薫は御冠船(うかんせん)芸能のプロデューサーである躍奉行(おどりぶぎょう)であった。彼は薩摩、江戸を何度も訪れ、能、歌舞伎をモデルに新しい沖縄芸能をつくりあげた。1719年、彼はついに「組踊」をデビューさせた。これは能と歌舞伎をミックスさせた奇抜な舞台芸能であった。
玉城朝薫の作品→『二童敵討(にどうてきうち)』『執心鐘入(しゅうしんかねいり)』『銘苅子(メカルシー)』『孝行の巻』『女物狂(おんなものぐるい)』


■屋嘉比朝寄(やかびちょうき)<1716〜1775>

〜沖縄古典音楽のベートベン〜

 1716年生まれ。眼病に悩まされ、後に盲目となる。屋嘉比は幼少より抜群の才能をひらめかせた。首里王府の命により学んだ鹿児島での謡曲と従来の支那音楽とを参考にすることで、琉球音楽の楽譜をつくった。また、謡曲を学ぶことで沖縄古典音楽に新たな改革を加えた。琉球古典音楽の代表的な『上り口説』(ヌブイクドゥチ)は、詞曲ともに屋嘉比朝寄の作品と言われている。


■知念績高(ちねんせきこ)<1761〜1828>

〜沖縄古典音楽のモーツアルト〜

 もともと武士ではなかったが、芸能の腕を買われ御冠船芸能のさいにお城に迎え入れられた沖縄古典音楽の天才児である。知念は従来あった古典音楽にさまざまに改革をくわえた。歌い方、弾き方を時流にのって変奏し新曲を増やしていった。知念は古典音楽のレパートリーをたちどころに広げていったのである。
王朝時代の天才たち
モーツアルト
◆写真提供:島袋 浩(STUDIO PLANET)