沖縄教職員会、沖縄県青年団協議会、沖縄官公庁労働組合協議会が世話役となって、1960(昭和35)年4月28日、超党派的な沖縄県祖国復帰協議会が組織されました。その後、祖国復帰運動が活発におこなわれますが、米国民政府による沖縄統治に変化はありませんでした。
実権をにぎっていた米国民政府は、沖縄統治に都合の悪い事態が生じた場合、布令や布告を発して住民の要求を無視、または否定してきました。1963(昭和38)年、当時のキャラウェー高等弁務官は「自治神話論」をふりかざし、米国民政府による直接統治をちらつかせました。
こうした高等弁務官のおどしと、主体性のない琉球政府への不満は各階層に広がりました。沖縄全土をゆるがす復帰運動は、日本本土はもとより国連加盟国にも届けられ、国際的にも注目されるようになります。
1960年代には米軍によるベトナム戦争が激化、米軍は国際的にも批判を浴び、大きな転換をせまられました。結局、アメリカのジョンソン大統領はベトナムの北爆を停止、このころから沖縄の日本への返還が日米間で政治的に取りあげられるようになってきます。
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