1960年代になると土地闘争はある程度落ち着きを見せますが、基地問題は住民の生活に重くのしかかってきました。住民はこれらの問題が異民族支配から派生するものとの認識を持ち、異民族支配を打破し、平和憲法下の日本へ帰ろうという祖国復帰運動を展開していきます。このような運動の大衆化を通じて、「教公二法(きょうこうにほう)阻止闘争」や「主席公選運動」も展開されていきました。
教公二法とは、地方教育区公務員法と教育公務員特例法のことで、本土ではすでに立法化されていました。この法案には、教員の政治活動の規制が盛り込まれていたため、沖縄教職員会をはじめ多くの民主団体はこの法案を復帰運動つぶしととらえ、立法化に反対したのでした。
しかし、沖縄民主党を中心とする保守勢力は、教公二法を通過させようと全面対決のかまえを示したため、この法案をめぐる世論は沖縄を大きく二分することになりました。
教公二法は幾度となく議会で取り上げられた後、1967(昭和42)年2月の本会議で保守勢力により強行採決されようとしました。しかし、立法院の周辺に集まった教職員を中心とする2万人余の大衆の阻止行動によって、この法案は廃案となりました。議会外の大衆運動の力を背景に、議会内少数派が法案を廃案に追い込んだとして、多くの称賛が寄せられました。
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