戦後沖縄/大衆運動の高揚と沖縄返還 4/6

■復帰運動の結末と沖縄返還

 佐藤栄作(さとうえいさく)総理大臣は1965(昭和40)年に来沖し、「沖縄が復帰しない限り、日本の戦後は終らない」というコメントを発表しました。しかし、沖縄住民が求めてきた「祖国復帰」と、日米両国によってすすめられた「沖縄返還」の内容には、大きなへだたりがありました。
 沖縄の復帰運動は、米国の異民族支配に反対する民族統一運動としてスタートしました。当初は、日の丸の旗をかかげて闘いぬかれてきた復帰運動ですが、1960年代後半の教公二法阻止闘争をきっかけに、民族統一運動から反戦・平和運動へと質的に変化していきました。
 1968(昭和43)年の行政主席選挙では、米軍基地の「即時・無条件・全面返還」を主張する革新共闘の屋良朝苗(やらちょうびょう)が、本土との一体化を主張する西銘順治(にしめじゅんじ)を破り、県民の圧倒的な支持を得て主席となりました。また、1970(昭和45)年に実施された、沖縄からの国会議員を選出するための国政参加選挙では革新側の議員が多く誕生し、沖縄住民が基地撤去を希望していることを国内外に示しました。
 1969(昭和44)年11月の佐藤・ニクソン会談終了後に発表された日米共同宣言では、「核抜き、本土並み、72年返還」の基本方針を掲げていたものの、その内容は沖縄住民の要求とはかけはなれたもので、人々の反発をかいました。



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