戦後沖縄/大衆運動の高揚と沖縄返還 5/6

■米軍統治下の沖縄の文化

 沖縄戦による激しい戦闘は、琉球王朝時代のすぐれた文化遺産を徹底的に破壊しつくしました。そのため、沖縄の文化復興は散逸した文化遺産を集めることからはじまったといえます。
 文化遺産の収集には米軍も理解を示していました。首里周辺の文化財は首里の人々の手で集められ、1946(昭和21)年には首里市郷土博物館が開館、翌年には首里博物館となりました。また、米軍政府は1945(昭和20)年、石川市東恩納(ひがしおんな)に沖縄陳列館を設置。施設は翌年、東恩納博物館として米国民政府に受けつがれました。
 1953(昭和28)年5月になると、これらの博物館は統合されて琉球政府立博物館となり、現在の沖縄県立博物館に引きつがれました。1950年代には破壊された文化財の復元や修復がおこなわれ、園比屋武御嶽石門(スヌヒャンウタキいしもん)や守礼門(しゅれいもん)なども復元されました。
 米国民政府はまた、アメリカ人と沖縄住民との交流施設として、琉米文化会館や琉米親善センターなどを各地に設置しました。学校教育は収容所時代からはじまっていましたが、1948(昭和23)年には6・3・3制の学校教育が実施され、1950(昭和25)年には首里城跡地に琉球大学が創設されました。
 異民族支配のもとでは抵抗の文学も登場し、大城立裕(おおしろたつひろ)や東峰夫(ひがしみねお)などの芥川賞作家も誕生しました。音楽芸能関係では、琉球音楽や琉球舞踊が隆盛をきわめるようになります。米軍基地の米兵たちがもたらしたジャズやロックは沖縄の若者に受け入れられ、実力派の音楽活動家も育っていきました。そして、沖縄民謡とジャズやロックをミックスさせたオキナワンミュージックも誕生しました。


世持橋匂欄羽目


沖展



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