戦後沖縄/大衆運動の高揚と沖縄返還 6/6

■返還直前の沖縄の世相

 大衆運動の盛り上がりにより、主席公選が実現して間もない1968(昭和43)年11月、嘉手納基地で米戦略爆撃機B52が離陸に失敗し、弾薬庫近くに墜落する事故がおきました。当時の沖縄はベトナム戦争の米軍出撃基地となっており、B52が嘉手納基地に常駐して連日ベトナムへの爆撃を続けていたのです。このような情勢を背景に、沖縄の大衆運動は反戦・平和運動へと発展していきました。
 1970(昭和45)年暮れに、コザ市(現沖縄市)中之町(なかのまち)で、米兵の運転する車両が横断中の沖縄住民をはねるという事故が発生しました。米兵による事件・事故の多発と、それに対する米国側の不当な処理に憤りを感じていた住民は、この事故処理をめぐって一気に反米感情を爆発させ、70台以上の車を焼くなどして「コザ騒動」をひきおこしました。
 この事件は、基地に依存する町で、米軍に従順と思われていた住民がひきおこしたものであるだけに米軍は大きなショックを受けました。また、沖縄返還について交渉中であった日米両政府にも多大な影響をあたえました。
 日米両政府の沖縄返還交渉は、沖縄住民が希望した「核も基地もない平和な島」をないがしろにした、基地存続の方向で進んでいきました。これに対し復帰協は「沖縄返還協定粉砕」を叫び、各地で大衆的なゼネストを決行しました。
 このような行動にも関わらず、日米両政府は1971(昭和46)年6月、東京およびワシントンで調印式をおこない、住民の要請を無視した沖縄返還を確定しました。沖縄住民は、返還協定が国会で批准されて効力を発する前に協定のやり直しを求めるための、「沖縄返還協定批准に反対し完全復帰を要求する県民大会」を開催しました。しかし、その後、沖縄県民の要求書をたずさえて上京した屋良主席の陳情もむなしく、沖縄返還協定は強行的に採決されたのです。


B52でていけ


全軍労スト


コザ騒動


毒ガス移送



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