1959(昭和34)年6月30日、石川市の宮森小学校に米軍のジェット機が墜落する事故が発生し、世界の航空史上まれな大惨事として内外に報道されました。児童11人をふくむ死者17人、重軽傷者210人、住宅など25棟が全半焼するという被害に、米軍は十分な補償を確約しましたが、補償解決には3年もの年月が費やされました。
この時期には、沖縄のいたる所で住民の人権を無視した米兵による事件が多発しました。事件・事故の裁判にも問題が多く、加害者である米兵はほとんどが無罪で、有罪判決を受けても本国へ送還された後の刑の執行は不明、沖縄住民は泣き寝入りというありさまでした。
さらに、実弾演習による自然破壊、原子力潜水艦による放射能汚染、基地からの排出物による井戸や河川・土壌などの汚染は日常茶飯事でした。
米軍統治下の沖縄はすべてが米軍優先であり、住民の人権は無視された状態でした。1960年代の沖縄の基地経済による繁栄は、住民の生命の危険と人権無視の代償だったのです。
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石川ジェット機墜落事故
米軍のトレーラー
投下演習で少女死亡
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