近代沖縄

 19世紀に入ると、欧米諸国が続々とアジアへ進出してくるようになりました。それにともない、日本の鎖国体制は崩壊し、近代国家形成へとつき進んでいきます。その過程において、琉球国も日本の国家体制の中に組み込まれ、500年にもおよんだ王国時代の幕を閉じることになりました。

琉球処分

 しかし、新生沖縄県の前途には険しい道のりが待っていました。日本との制度・風習の違いは、同じ国家に属しながらも同一化を困難とし、また旧支配層の明治政府に対する反発も根強いものがありました。そのため、沖縄県には当面の施策方針として「旧慣温存策(きゅうかんおんぞんさく)」がとられました。
 これは、王府時代から続いている土地制度・租税制度・地方制度などをすえおき、急激な改革をおこなわないことで沖縄側の反発を回避しようとしたものです。しかし、これによって沖縄の諸政策が他府県より大きく立ち後れ、結果的に沖縄県民の生活を苦しめることになりました。
 沖縄に対する日本への同化教育(皇民化教育)は、19世紀後半の日清戦争後から徹底されるようになりました。これまで戦闘の経験のない沖縄の人々も、日露戦争では日本軍人として闘うことを余儀なくされました。

沖縄の民権運動

旧慣改革と特別制度の撤廃

 いっぽう、そのころの経済情勢は深刻な不況にみまわれていました。沖縄でも大正末期から昭和初期にかけての「ソテツ地獄」とよばれる恐慌に、人々はあえいでいました。そのため多くの県民が、出稼ぎや移民として本土や海外をめざしました。

「ソテツ地獄」下の沖縄

 昭和に入ると日本のアジア侵略構想は拡大し、沖縄は本土防衛の前線基地として位置づけられます。そして1945(昭和20)年3月、米軍が沖縄の慶良間(けらま)諸島に上陸、悲惨を極めた沖縄戦へと突入することになります。多くの犠牲を出したこの沖縄戦は、日本とともに歩んだ沖縄近代史を象徴するできごとといえます。

沖縄戦