近世沖縄の農村を貧窮させていた最大の原因は、旧慣として残されていた土地制度でした。従来の沖縄の土地制度は地割制度で、農民の土地私有は原則的に許されていませんでした。また、これに対する租税も、士族層は免税特権があたえられ、農民だけが負担するという矛盾に満ちたものでした。
そのため農民らは、役人に対する不正追及や人頭税廃止運動をみずからの力で起こしました。そこに謝花昇らの参政権獲得運動も重なった動きは、土地および租税制度の改正へと明治政府をつき動かすことになりました。
いっぽう、政府側にとっては、近代資本主義確立にむけて安定した租税制度と合理的な支配体制が必要であり、そのためにも旧慣の改革は必須事項でした。
沖縄の土地整理は、本土の地租改正(1873〜1879年)に相当するもので、1899(明治32)年にはじめられ1903(明治36)年に終了しました。土地整理の要点は、「地割制度のもとで使用していた土地をそのまま個々の農民の私有地と認める」「土地所有者を納税者とする」「物品納や人頭税を廃止して、地価の2.5%を地租として納めさせる」というものでした。これによって、従来の租税はある程度軽減されましたが、いっぽうで国税の増減や新税の設置などがあったため、実際の租税負担は年々重くなってしまいました。
ところで、土地整理は農民の生活に大きな変化をもたらしました。これまでは一方的に土地を割り当てられ、耕作を強制され、物納を強いられていましたが、改革後は農民自身が土地を所有し、税金をおさめることになりました。唯一の換金作物であるサトウキビ栽培も普及しつつありました。
しかし、それでも多くの農民は納税に苦しみ、土地を手ばなす事態も生じました。農民の間には格差が生じ、所有地のない農民は雇用農民として働くか、もしくは県外への出稼ぎや海外移民へ目を向けざるを得ませんでした。
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