近代沖縄/旧慣改革と特別制度の撤廃 2/5

■地方制度改革と国政参加

 旧慣のもう一つの要である地方制度は、土地整理に先立ち1896(明治29)年に改編されました。これにより、沖縄全域は島尻(しまじり)・中頭(なかがみ)・国頭(くにがみ)・宮古・八重山の5郡と、那覇・首里の2区に分けられました。また、さきの3地域には郡長が、先島(さきしま・宮古および八重山諸島)には島司が、そして那覇・首里には区長がおかれて、行政区画が明確になりました。
 1897(明治30)年には、従来の間切(マギリ)・島番所が役場に改称され、役人の数も大幅に削減されました。さらに1899(明治32)年には、議決機関として間切会・島会がおかれ、間切・島の総代が選んだ議員によって構成されました。
 しかし、これらの自治への歩みも、県当局から完全に独立したものではありませんでした。本格的な地方自治改革がおこなわれるのは、それからおよそ10年後のことになります。
 1908(明治41)年には、間切・島が町村に、村が字に改められました。翌1909(明治42)年には沖縄県会が設置されましたが、これにもさまざまな制限がありました。結局、沖縄の人々が他府県なみの自治権を獲得したのは、大正デモクラシーが高揚しつつあった1920(大正9)年のことでした。また、謝花昇(じゃはなのぼる)らの運動の成果である国政参加の施行も、1912(大正元)年になってからでした。宮古・八重山の国政参加が認められたのは、さらに遅れた1919(大正8)年のことでした。



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