富国強兵をめざしていた明治政府は、欧米の近代的な兵制にならい、1873(明治6)年、国民に兵役義務を強制的に課す徴兵令(ちょうへいれい)を公布しました。
沖縄にも1885(明治18)年からその適用計画が進められました。1896(明治29)年には小学校教員に兵役が実施され、その2年後には一般への徴兵令が実施されました。教員が真っ先に兵役の対象となったのは、天皇に忠実な皇国の子とする皇民化(こうみんか)を浸透させ、なおかつ軍事教育を普及させるためには、根幹となる教育の担い手から思想改革をする必要があったためです。
沖縄の官人や教育者、新聞人などは、国民の義務である兵役を負うことで沖縄県民も皇国臣民(日本国民)の仲間入りができると歓迎しました。しかし、一般民衆の多くは徴兵を逃れるために、逃亡や障害者をよそおうなどあらゆる手段で拒否姿勢をとりました。この、徴兵忌避のために処罰された者の数は、1898(明治31)年から18年のあいだに744人にものぼりました。
いっぽう、当時の沖縄には標準語が十分に話せない住民が多く、軍隊内では他府県人から差別を受けるという状況が生じました。日本国民として皇民化教育を受けていた沖縄の人々にとって、その差別をぬぐい去り、れっきとした皇民であることを証明するには、戦場で身を挺して戦う以外に方法はありませんでした。このような意識変革をせざるを得なかった沖縄県出身の兵士は、日露戦争で出兵者の約1割が死傷するという悲壮な結果も生みました。しかし、それをもって日本政府は、沖縄県民も真の皇民であるとほめたたえたのです。
こうして、日清戦争のころには明治政府に背を向けていた沖縄の人々が、日露戦争を境に忠君愛国(ちゅうくんあいこく)の精神をもって、近代的日本人として歩みだしていくことになりました。
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