近代沖縄/旧慣改革と特別制度の撤廃 4/5

■近代沖縄の教育と学問

 初代県令の鍋島直彬(なべしまなおよし)は、琉球特有の言葉や文化をあらため、日本と同一化することが急務であるとの方針を出しました。そのため、沖縄県設置の翌1880(明治13)年には、教員養成のための沖縄小学師範学校(のちの沖縄県師範学校)が設置されました。教育制度の改編も進み、沖縄県立中学校、小学校による近代教育が開始されました。
 当初は日本支配への反発から就学率も低く、また女子の就学が認められたのも1887(明治20)年になってからのことでしたが、日清戦争後に30%だった就学率は、日露戦争をへて1927(昭和2)年までには99%に達しました。
 1900(明治33)年には女子の中等教育がはじまり、公立・私立の女学校や実業学校、専門学校、医学講習所などが設立されました。しかし、高等学校や大学などの高等教育機関は設立されず、県出身の指導者層の育成は思うようには進みませんでした。
 学問の道をめざして中央の上級学校へ進学する者も徐々に増えてきました。中でも、伊波普猷(いはふゆう)は、日本への同化につき進み沖縄的なものを排除していく時代にあって、沖縄という独自性に主眼を置いて研究を進めました。
 伊波は、尋常中学時代に沖縄に対する差別的教育への抗議行動を起こして以来、つねに「沖縄を考えながら生きる道」を模索し続けました。中学を退学になったのち、東京大学で言語学を学んだ伊波は「おもろさうし」の研究に取りかかりました。言語学のみならず、歴史学や民俗学など、総合的に沖縄を研究(いわゆる沖縄学)することに生涯をかけた伊波は、1911(明治44)年に発行した『古琉球』をはじめ、多くの沖縄関係書も出版しており、「沖縄学の父」と称されるようになりました。
 また、歴史学では『南島風土記』を著した東恩納寛惇(ひがしおんなかんじゅん)、言語学では全国の方言を徹底的に調査研究した宮良当壮(みやらとうそう)らをはじめ、沖縄研究の大きなうねりに刺激された多くの研究者が多大な業績を残しています。


伊波普猷


伊波普猷の墓



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