旧慣諸制度の改革が進むと、沖縄にも近代的な文化がもたらされるようになりました。
1893(明治26)年には沖縄初の新聞『琉球新報』が創刊され、続いて数種の新聞が次々と刊行されました。これらの新聞は、創刊当初から独自の主張展開と利害関係などで対立していましたが、県民の政治論争や新思想の啓蒙に大きな役割を果たしました。
文学では、1904(明治37)年を琉球文芸復興の年として近代的思想の表現・実践をおこなった伊波月城(いはげつじょう)をはじめ、日本の各文芸雑誌に多くの文芸人を輩出しました。与謝野鉄幹・晶子と交流があった歌人の山城正忠(やましろせいちゅう)は、中央文壇に数多くの作品を発表しました。大正期には世礼国男(せれいくにお)や池宮城積宝(いけみやぎせきほう)、昭和期には山里永吉や伊波南哲(いばなんてつ)らがいます。また、上京して貧しい暮らしを続けながらも、ユーモアとペーソスに満ちた詩を書き続けた山之口貘(やまのぐちばく)も知られています。
近世における沖縄の美術は王府の保護のもとで発展しましたが、明治期には新しく西洋画と日本画の技法が伝わりました。王府の御用絵師として知られた仲宗根嶂山(なかそねしょうざん)や長嶺華国(ながみねかこく)らは、明治以降は伝統的画法を継承しつつも独自の画法を生み出して描き続けました。西洋画では、沖縄県からはじめて東京美術学校で学び、その後教師として若手画家の育成につとめた西銘生楽(にしめせいらく)や、同様に教師として指導をおこなった比嘉景常(ひがけいじょう)らがいます。
音楽では、伝統的な郷土音楽が歌い継がれ、古典音楽として今日まで続いています。それらの音楽に、西洋音楽を取り入れながら新しい沖縄の歌謡を世に出したのが、師範学校の教師で『えんどうの花』『なんた浜』などが知られている宮良長包(みやらちょうほう)です。
演劇は、王国時代の流れをくんだ旧士族層の芸能家たちによってはじめられました。彼らは「芝居師(シバイシー)」とよばれ、台詞劇の『首里城明け渡し』や、歌劇の『泊阿嘉(トゥマイアーカー)』など、大衆娯楽として県民に親しまれました。いっぽう、伝統芸能とよばれる琉球舞踊や組踊(くみおどり)も演じ伝えられましたが、一般向けに演じられる機会は少なかったといえます。
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