19世紀になると、アメリカは北太平洋の操業船や中国貿易の船舶の寄港地として、日本に着目していました。そこで、開国要求の使者として、1846年に司令長官ビッドルを日本に派遣しましたが、幕府はこれを拒絶しました。
1853年に二度目の交渉にのぞんだ米国の一行は、日本を訪れる前に琉球に来航しました。このときの米艦隊司令長官がペリー提督です。アメリカは琉球が日本の支配下にあることを知っており、日本との交渉が失敗に終わった場合は琉球を占領する考えでした。同年5月にはじめて琉球に姿を現わしたペリーの通商要求を琉球側は断りましたが、ペリーは王府の抵抗を押し切って首里城を訪問し、王府側と交渉しました。
ペリー一行は、6月に入ると浦賀に姿を現わし日本中を騒然とさせました。ペリーは強固に開国を要求して一旦はさりますが翌年3月に再訪し、なかば強制的に日米和親条約を締結しました。こうして日本の長い鎖国体制に終止符が打たれました。
1854年6月になると、ペリー一行は再び琉球に来航し、ここでも強制的に琉米修好条約を締結しました。条約の内容は、米人の厚遇、必要物資や薪水の供給、難破船員の生命財産の保護、米人墓地の保護、水先案内人の件などを規定するものでした。
こうして、欧米諸国の圧力によって開国を余儀なくされた幕府は崩壊し、日本は近代国家への道のりをつき進んでいきました。同時に琉球にも、新しい時代の波が押し寄せてくることになりました。
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