近代沖縄/沖縄戦 1/4

■県外疎開と10・10空襲

 アジア・太平洋戦争がはじまったころから、沖縄は航空基地あるいは本土防衛のための前線基地という位置づけが強まってきました。沖縄各地で民家や農地が強制収用され、日本軍の飛行場が建設されはじめました。
 1944(昭和19)年には、沖縄守備軍・第32軍が設置されて、沖縄諸島をはじめ先島(さきしま・宮古および八重山諸島)などへ実戦部隊が送り込まれました。大部隊を迎えることになった地域では、兵舎として学校や民家はもとより、食糧や家畜などあらゆる物資を提供しなければなりませんでした。
 アジア・太平洋戦争も終盤戦に入ったころ、沖縄県からの移住者が多いサイパン島が陥落し、県民に大きな衝撃をあたえました。同胞を失った悲しみはもとより、サイパンの次のターゲットは沖縄と予想されたためです。
 前線基地としての沖縄で持久戦を展開させるためには、戦力とならない老幼婦女子の疎開が必要でした。日本政府は、沖縄県から本土へ約8万人、台湾へ約2万人の疎開計画を立てましたが、見知らぬ土地へ行く不安と、すでに沖縄近海に敵戦艦が出没していたことから、計画は思うようには進みませんでした。特に1944(昭和19)年8月21日、学童疎開者800人をふくむ乗客約1700人を乗せた対馬丸(つしままる)の撃沈は、県民の疎開に対する不安に拍車をかけました。
 しかし、同年10月10日の米軍機による激しい空襲によって、一気に疎開希望者が増えることになりました。
 10・10(じゅうじゅう)空襲は、北は奄美諸島から南は石垣島、東は大東島(だいとうじま)にいたるまでの南西諸島全域を対象に米軍がおこなった大規模な攻撃でした。猛攻撃にさらされた那覇市は、市街地の90%が燃えつきたほか、琉球王国時代の貴重な文化遺産を多数失いました。この時の米軍機はおよそ1,400機、死者は約600人、負傷者約700人にもおよんだといわれます。


小桜の塔


海鳴りの像



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