沖縄県では、1943(昭和18)年から中等学校において軍事教練が強化されるようになりました。同年7月には東条英機首相が来沖、11月には女子学徒を対象に看護教育がはじめられ、学徒動員体制が本格的に確立されていきました。
10・10空襲を受けたのち、学徒の戦争動員はますます激化し、生徒たちは疎開を許されないまま、学校をあげて軍隊へ全面協力する体制が整えられていきました。1945(昭和20)年2月には、中等学校および師範学校の男子生徒は鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)に、師範学校をふくむ女子生徒はひめゆり学徒隊などの従軍看護婦隊に編成され、戦場にかり出されていきました。
10・10空襲で大打撃を受けたあとの沖縄では、1945(昭和20)年に入ると米軍機の空襲がますます激しくなり、米軍の沖縄攻略は時間の問題となりました。
そして、同年3月26日、ついに米軍は慶良間(けらま)諸島へ上陸しました。凄惨を極める地上戦がはじまりました。
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