近代沖縄/沖縄戦 2/4

■沖縄戦のはじまり

 沖縄県では、1943(昭和18)年から中等学校において軍事教練が強化されるようになりました。同年7月には東条英機首相が来沖、11月には女子学徒を対象に看護教育がはじめられ、学徒動員体制が本格的に確立されていきました。
 10・10空襲を受けたのち、学徒の戦争動員はますます激化し、生徒たちは疎開を許されないまま、学校をあげて軍隊へ全面協力する体制が整えられていきました。1945(昭和20)年2月には、中等学校および師範学校の男子生徒は鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)に、師範学校をふくむ女子生徒はひめゆり学徒隊などの従軍看護婦隊に編成され、戦場にかり出されていきました。
 10・10空襲で大打撃を受けたあとの沖縄では、1945(昭和20)年に入ると米軍機の空襲がますます激しくなり、米軍の沖縄攻略は時間の問題となりました。
 そして、同年3月26日、ついに米軍は慶良間(けらま)諸島へ上陸しました。凄惨を極める地上戦がはじまりました。


南風原陸軍病院壕


ひめゆり第一外科壕跡

 慶良間諸島に配置されていた日本軍は、海上挺身隊と特攻隊が主で、地上部隊はほとんどいませんでした。米軍の不意の上陸になすすべのなかった日本軍は、山中の壕に逃げ込んで抵抗するのが精一杯で、特攻艇もほとんど破壊されました。住民には、直接・間接に自決せよとの命令が出されました。行き場を失い、米軍にいい知れぬ恐怖を抱いていた人々は、家族や親戚ぐるみで互いを殺し合う「集団死」によって、命を絶っていきました。慶良間諸島において「集団死」で絶命した住民は、渡嘉敷島(とかしきじま)で329人、座間味島(ざまみじま)で171人、慶留間島(げるまじま)で53人にのぼりました。
 このほかにも、日本軍が降伏する8月下旬までの間、日本兵による沖縄住民の虐殺や朝鮮人軍夫への虐待と虐殺が各地で発生しました。


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