近代沖縄/沖縄戦 3/4

■沖縄戦の経過

 1945(昭和20)年4月1日、読谷(ヨミタン)・嘉手納(かでな)・北谷(チャタン)にまたがる海岸に無血上陸した米軍は、二つの日本軍飛行場を占領しました。日本軍が何の抵抗もせず米軍の上陸を許したのは、当初は水際作戦を計画していたものが、兵力不足によって持久戦へと作戦変更を余儀なくされたためでした。また、そうすることによって本土への米軍侵攻を遅らせ、本土決戦の準備を整えるというねらいがあったのです。
 米軍は、翌4月2日には東海岸に達して沖縄島を南北に分断し、さらに20日ごろには実質的に北部全域を占領しました。そのため、飢えとマラリアに苦しみながら山中に潜んでいた避難民は、米軍の銃弾と同時に、敗残兵となった日本兵の食糧略奪や拷問・虐殺からも身を守らなければなりませんでした。
 北部でもっとも戦闘が激しかったのは「東洋一」の飛行場を持つ伊江島でした。6日間にわたって展開された激しい戦闘では、多くの兵士のほか住民も多数が命を落としました。また「集団死」でも100人以上の住民が犠牲となりました。
 中南部へ侵攻してきた米軍に対し、沖縄守備軍は5月3日から数日間にわたって総攻撃をかけますが、主戦力部隊の大半を失う大敗を喫しました。5月27日、沖縄守備軍は首里城地下の司令部壕を放棄して南部の摩文仁(まぶに)への撤退をはじめますが、めざした南部のガマ(自然壕)にはすでに避難民が押し寄せており、そこでもまた、日本軍による壕追い出しや食糧強奪、住民虐殺がおこなわれました。
 沖縄守備軍の撤退作戦に対し、大田実司令官ひきいる小禄(おろく)飛行場の海軍部隊は行動をともにせず、大田司令官は「沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」の電文を打って自決、部隊は潰滅しました。
 沖縄島南端に撤退し、最後の一戦にのぞんだ守備軍もついには敗れ、6月22日(23日説もある)の牛島満(うしじまみつる)司令官と長勇(ちょういさむ)参謀長の自決により、組織的戦闘は終了しました。しかし、その後も各地で戦闘は続き、米軍が沖縄作戦の終了を宣言したのは7月2日、日本軍が公式に降伏文書に調印したのは9月7日になってからのことでした。


旧日本軍司令部壕


とどろき壕


魂魄の塔


平和の礎



戻る 進む