第二尚氏王統でもっともすぐれた業績を残し、琉球王国の黄金期とよばれる時代をつくりあげたのが、3代王の尚真(しょうしん)です。
尚円の死後、弟の尚宣威(しょうせんい)が2代目王に即位しますが、わずか半年で王位をしりぞいたため、尚円の息子・尚真が12歳という若さで国王になりました。その後50年にわたって在位した尚真は、琉球王府を頂点とした中央集権体制を着実に整えていきます。
まず尚真は、各地で勢力を保っていた按司(アジ)たちを首里に住まわせ、地方にはそれらの管理者として按司掟(アジウッチ)という役人をおいて、地方勢力を支配下におさめました。さらに、ひと目で階級が分かる身分制度を確立するために、按司には身分に応じた色の冠(ハチマチ)や簪(かんざし)をつけるよう命じました。
また、現在の市町村や字にあたる「間切(マギリ)」「シマ」を設置して、地方の行政区画を整備しました。その行政圏は、沖縄本島をはじめ奄美、宮古、八重山にまでおよびます。
聞得大君(きこえおおぎみ)とよばれる最高神女(ノロ)を頂点とした神女組織の整備は、王府の権力を精神的に統制する目的でおこなわれました。
いっぽう、中継貿易によってたくわえた財源で、土木事業も多く手がけて国内を整備しました。
このように、尚真王によって確立された中央集権国家は、まさに「琉球の黄金時代」とよぶにふさわしい繁栄の時代をむかえたのです。
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明孝宗より琉球国
中山王尚真への勅書
伊平屋島仲田の
首里大屋子への辞令書
羽地間切屋我ノロへの
辞令書
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