琉球の学問や文学は、日本と中国の両方の影響を受けていましたが、言葉は日本語系統であり、漢文は日本式に読んでいました。
『六諭衍義(りくゆえんぎ)』
程順則(ていじゅんそく)ともいう名護親方寵文(なごエーカタちょうぶん)が、若いころ中国から持ち帰った道徳の本。のちに薩摩を通じて幕府に送られ、荻生徂徠(おぎゅうそらい)と室鳩巣(むろきゅうそう)によって日本語(和文)に訳され、寺子屋の教科書として全国に広まりました。
『混効験集(こんこうけんしゅう)』
1711年にまとめられた琉球古語の辞書で、識名盛命(しきなせいめい)が立案者だといわれています。随所に『源氏物語』、『伊勢物語』、『徒然草』などの日本文学書からの引用があります。当時の琉球の文学者はほとんどが和歌にすぐれており、首里の大名の家では毎月歌会が開かれ、ときには国王も出席していたようです。
琉歌(りゅうか)
琉球の言葉であらわした8・8・8・6の30音からなる定型の叙情歌謡です。8音、6音は日本の万葉時代(奈良時代)以前の音の特徴があります。琉歌は和歌の影響と、14世紀末に中国から伝えられた三線(サンシン)の伴奏によって盛んになりました。いまなお人々に歌い親しまれている女流歌人・恩納(おんな)ナベの歌や、古今調の技巧的で繊細な歌を残した遊女、吉屋思鶴(よしやウミチル)の歌が有名です。
【恩納ナベの歌】【吉屋チルーの歌】
組踊(くみおどり)
冊封使(さくほうし)歓待のためにつくられた戯曲です。音楽と舞踊、台詞で構成された琉球独自の楽劇で、玉城朝薫(タマグスクちょうくん)によって創作されました。1719年の冊封式典の時にはじめて演じられました。素材は琉球の古伝説に求めていますが、その様式や演出は、能や人形浄瑠璃、歌舞伎などの影響を受けています。「二童敵討(にどうてきうち)」「執心鐘入(しゅうしんかねいり)」「銘苅子(メカルシー)」「女物狂」「孝行之巻」を、組踊五番とよんでいます。そのほか、平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)の「手水の縁(てみずのえん)」がよく知られています。
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