近世琉球

 東アジアを舞台に築いた大いなる「大交易時代」も、16世紀をむかえると西欧勢力の出現によって終わりをむかえます。そして、それまで、友好的な貿易相手国であった日本と琉球との関係にも、変化があらわれはじめました。
 領土的野心をもって琉球に接してくるようになった薩摩の島津氏(しまづし)は、1609年、幕府の力をうしろだてに、武力をもって琉球へ侵攻してきました(島津侵入)。戦闘の経験もなく武力の弱い琉球は、なすすべもなく薩摩の支配下におかれることになりました。

島津氏の琉球侵略

 ただし、琉球王国は解体されず、中国に対しては薩摩による琉球支配が隠されるようになります。しかし、実質は米などの上納を義務づけられ、掟(おきて)によって貿易や生活などが統制され、「江戸上り」を強要されるようになりました。

島津氏の琉球支配

 このような混乱の時代に、大胆な政治改革をもって登場したのが羽地朝秀(はねじちょうしゅう)と蔡温(さいおん)でした。彼らは、薩摩支配下にある琉球の現実をみすえ、協調路線を基盤にした政策で、危機にひんした王国を救おうとしました。ここに、古琉球の伝統的な政治体制は終わり、近世琉球への新たな道が開かれました。

琉球王国の再建

 近世期の琉球はまた、琉球文化がかつてないほどの発展をとげた時代でもありました。日本や中国の文化を積極的に吸収し、従来の琉球文化に融合させることで、独自性の強い豊かな琉球文化が誕生しました。それは、今に伝えられる沖縄の伝統文化の多くが、この時代に培われたことからも分かります。

近世の産業と文化の興隆