■琉球支配の成立
琉球を手中におさめた島津氏(しまづし)は、検地をおこない、年貢の上納を義務づけ、尚寧(しょうねい)王と三司官(さんしかん・国王を補佐し国務をつかさどる役人)には、島津氏に忠誠を誓う起請文(きしょうもん・誓約書)の提出を強要しました。 起請文の内容は「琉球は幕府や島津への義務を怠ったために、薩摩によって征討された。そのため琉球はいったん滅んだが、島津の恩情により、奄美諸島をのぞく沖縄諸島以南を再びあたえられた。この御恩は子々孫々まで忘れず、決して島津氏にそむかない」というものでした。このいっぽう的な起請文のおしつけを最後まで拒んだ三司官の一人・謝名親方(じゃなエーカタ)は、薩摩滞在中に処刑されました。 さらに島津氏は、琉球王府を監視するための在番奉行(ざいばんぶぎょう)を送り、また15条からなる「掟(おきて)」を定めて、琉球を統制下におきました。