近世琉球/島津氏の琉球侵略 1/2

■秀吉と島津氏と琉球の関係

 16世紀にはいると琉球の「大交易時代」も終わりますが、依然おこなわれていた中国との進貢(しんこう)貿易は、琉球王国を独立国家として存続させるための経済的活力となっていました。
 そのころ全国統一をなした豊臣秀吉は、朝鮮・明をふくむ東アジアの征服を試みます。まず、朝鮮侵略のための軍役令(ぐんやくれい・軍事的負担のこと)を全国に発した秀吉は、当時独立国であった琉球へも、薩摩藩(島津氏)を通して軍役を要求してきました。その内容は、「琉球と薩摩をあわせて1万5,000人の軍勢を派遣しなくてはならないが、琉球は戦闘の経験がないので、軍勢を免除するかわりに兵糧米(ひょうろうまい・戦時における将兵の食糧とする米)を7,000人・10カ月分供出するように」というものでした。
 ちょうどその時期、新国王・尚寧(しょうねい)は冊封使(さくほうし)をむかえ入れなければならなかったため、経済的に余裕のない状態でした。また、琉球王国にとっての宗主国はあくまでも明であり、日本側の要求を受け入れてしまうと明との関係が悪化するのでは、という懸念もありました。この問題をめぐって琉球内部では激論が続きましたが、島津氏(しまづし)の命令を拒んでは攻撃を受けてしまうとの危機感から、軍役の半分を負担しました。



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