近世琉球/島津氏の琉球侵略 2/2

■島津氏の琉球侵略

 1598年の秀吉の死により、朝鮮出兵は終わりました。その後、実権をにぎった徳川家康は、朝鮮出兵により険悪となった対中関係を修復するために、その斡旋役を琉球に求め、暗に幕府への従属をうながしました。しかし、明との関係を第一と考えた琉球は、幕府の要求には応じませんでした。
 琉球との交渉役を任されていた島津氏(しまづし)は、みずからの財政難を乗り切るために、なんとしても琉球を服従させなければなりませんでした。そこで、強固な琉球侵攻計画を立てます。当初は武力行使を控えていた幕府も、琉球のかたくなな拒絶姿勢に業を煮やし、ついに島津氏の侵攻計画を許可しました。
 1609年3月、3,000の軍をひきいた島津氏は、奄美大島をつたい琉球諸島へと攻め入りました。戦闘の経験もなく武器をほとんど持たない琉球の軍勢は、抵抗するすべもなくわずか10日間で敗れ、首里城を明け渡しました。
 その後、尚寧(しょうねい)王と重臣らは薩摩に連行され、約2年間抑留されました。さらに尚寧は「子々孫々まで島津氏にそむかない」という誓約書まで書かされるという、王国はじめての屈辱を受けたのです。これ以後、琉球は独立王国と称しながらも、実際は島津氏とその背後の徳川幕府に従属する道のりを歩むことになります。


薩摩軍の進行経路図


運天港



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