18世紀半ばの琉球は、台風や干ばつなど多くの災害にみまわれたため、租税の搾取により苦しんでいた農村はますます疲弊していきました。農村では一部の富農層と貧農層という貧富の格差が生じ、貧しい農民は間引きや身売りをせざるを得ませんでした。一世帯では年貢の上納ができない家内倒れ(チネーだおれ)や、その上の与(くみ・上納の責任単位)でも負担できない、与倒れ(くみだおれ)という現象もみられるようになりました。
そのころの百姓の主食はサツマイモでした。しかし、収穫サイクルが早く災害にも強いといわれるサツマイモでさえ、この時期の飢饉には供給が間に合わず、餓死者が数多く出ました。そこで救荒食物として利用されはじめたのが蘇鉄(そてつ)です。蘇鉄は毒素をとりのぞく処理方法をあやまると死ぬ危険性がある有毒植物ですが、当時の食糧難はそれほど深刻で、王府は毒素処理法の指導もおこないながら蘇鉄の栽培をおしすすめました。
王府はこのように疲弊した農村を立て直すため、役人を派遣して復興につとめましたが、それでも復興が見込めないほど農村の実態は深刻で、それは農村を経済基盤としていた王府財政の破綻を意味しました。
【琉球における飢饉と疫病の流行】
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