近世琉球/琉球王国の再建 8/10

■先島統治の実態

 先島(さきしま・宮古および八重山諸島)が琉球王府の支配下におかれはじめたのは、1500年の「オヤケ赤蜂(あかはち)の乱」以降ですが、そのころはまだ間接的な統治でした。1609年以降、琉球が実質上、薩摩に支配されるようになると、王府は先島統治をより強固なものにしなければなりませんでした。そのために先島には蔵元(くらもと)とよばれる王府の出先機関が設置され、そこには在番という役人が首里王府から派遣されました。
 薩摩による検地は沖縄本島をはじめ先島にもおよび、その結果、薩摩へおさめる貢納高が決められました。王府は先島に対して「人頭税(にんとうぜい)制」をとりました。これは、田畑の面積とは関わりなく頭割りに税を課す方法です。
 この人頭税制により、いったんは人口が増加し耕地も拡大して生産力も高まったのですが、18世紀後半になると「明和の大津波」による大災害などで、人口の減少による生産力後退という事態がおきました。それでも、王府による租税のとりたては厳しく続いたため、先島の農村はいっそう疲弊していきました。



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