近世琉球においては、都市部には士族階層や町百姓が住み、地方には田舎百姓が住むようになっており、住居の移動は堅く禁じられていました。例外として、職のない士が間切(マギリ)に移住して農業に従事することが許されていました。このような士の集落を屋取(ヤードイ)とよびました。
古琉球の行政区画が間切・シマ制(間切が現在の市や町、シマが字に相当する)であったのに対し、近世には間切・ムラ制にかわり、それぞれ番所、村屋という役所がおかれました。番所には、指導力のある百姓が地頭代(ジトゥデー)に任命され、計5人の役人が詰めていました。そのほか、農耕や杣山の管理・指導をおこなう役人や村屋にも下級役人がそれぞれおかれました。
農村の耕地としては、百姓にあたえられた百姓地、地頭や間切役人、ノロ(神女)にあたえられた役地、そのほか開墾によって私有が認められた仕明地がありました。
百姓は、田畑にかかる租税を米や砂糖などで王府へおさめ、そのうえ役地を耕作する義務もあり、その収入の三分の二は王府・地頭や地方役人・神女へ、三分の一を自己収益として得ることができました。
このような租税義務は農民に極度な負担をあたえ、さらに滞納租税を徴収するための厳しい農民管理が、農村の疲弊という矛盾を生じさせました。
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