蔡温(さいおん)は、先に重要な政治改革をおこなった羽地朝秀(はねじちょうしゅう)の思想を受けつぎ、諸政策に取り組みました。
中国系の渡来人が居留する久米村(くめむら)出身の蔡温は、若いころから儒教や風水(地理学)を学び、中国では王国再建のための実学もおさめました。その才能を発揮して1728年、三司官に就任した蔡温は、薩摩との協調路線をとった羽地と同様の思想に基づき、さらに新しい政策を打ち立てます。それは、貧しく苦しんでいた農村の活性化をはじめ、山林資源の確保、王府財政の立て直しなどをはかるものでした。
蔡温はまず農村支配を確立するために、儒教思想による意識改革をおこないました。「御教条(ごきょうじょう)」とよばれる生活改善法を制定し、農民をはじめ役人にいたるまで、道徳的内容をもってこれを守るようにと説きました。
農業政策では、百姓が都市へ移り住むことを禁止し、農業生産の向上に努めさせました。また、みずからも島内を巡視して、治水・灌漑事業を推進しました。
造林と山林保護政策は、蔡温の業績としてもっとも評価されたものの一つです。当時の人口増加による建築資材や薪などの生活資材の消費は著しく、蔡温はそれをみすえたうえで、植林や山林管理方法の規程を定めてその指導をおこないました。
王府財政の立て直し策としては、琉球の特産品であるウコンや黒糖の王府専売制を強化し、さらに租税以外の黒糖を農民から安値で買い上げる買上糖の制度もはじめました。
このような蔡温の、ある種強権的な政治改革には当然批判の声も多く、学者の平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)らによる王府批判事件がおきましたが、平敷屋らが謀反人として処刑される結果となりました。
蔡温は行政をとりおこなういっぽうで、多彩な学問経験を生かして多くの著書を残しました。これらは、近世官僚たちに大きな影響をあたえるとともに、伊波普猷(いはふゆう)や真境名安興(まじきなあんこう)ら近代沖縄の学者たちの研究の的ともなりました。
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