戦後沖縄/戦後沖縄キーワード 3/4

●宮森小ジェット機墜落事故
1959(昭和34)年6月30日、石川市の宮森小学校に米軍のジェット機が墜落し、児童11人をふくむ死者17人、重軽傷者121人のほか、住宅など25棟が全半焼するという大惨事となりました。パイロットは事故直前に脱出して無事でした。米軍はあくまでも不可抗力の事故であると言明し、十分な補償を約束しましたが解決までに3年の歳月がかかりました。

●ベトナム戦争
戦前のベトナムはフランスの植民地でしたが、15年戦争で日本に占領され、戦後は社会主義国が承認するベトナム民主共和国(北ベトナム)と、フランス・アメリカ・イギリスなどが支持するベトナム国(南ベトナム)に分裂、アメリカは積極的に紛争に介入していきました。沖縄は嘉手納基地を中心に、ベトナム戦争における米軍の重要な出撃・補給・中継の後方基地となりました。

●自治神話論
「沖縄が独立しない限り、沖縄住民による自治権は神話である」と語ったキャラウェー高等弁務官は、その権限を容赦なく行使し、キャラウェー旋風をまきおこしました。

●沖縄県祖国復帰協議会
 沖縄県祖国復帰協議会(略称・復帰協)は、沖縄が日本から分離された1952(昭和27)年4月28日を「屈辱の日」ととらえ、それ以降この日を中心として復帰運動をおこなうようになりました。

●裁判移送撤回運動
 1966(昭和41)年におこったサンマ裁判と友利裁判は、米国民政府が発した布令とかかわっていたことから、両事件が琉球政府上訴裁判所に上訴されると、ワトソン高等弁務官は米国民政府裁判所へ裁判を移送するよう命令しました。琉球上訴裁判所は移送命令に応じますが、住民自治の拡大が叫ばれていた時期で、立法院は「裁判移送命令の撤回要請決議」を全会一致で採択しました。ワトソン高等弁務官は命令を撤回せず審理を命じました。裁判の結果は琉球裁判所の布令審査権を認め、友利側勝利の判決を下します。その後、ワトソン高等弁務官は更迭されました。

●教公二法阻止闘争(きょうこうにほうそしとうそう)
 教公二法とは「地方教育区公務員法」と「教育公務員特例法」のことで、これらの法案は地方公務員の法的立場を明らかにし、身分を保証するものであるとされていました。ところが、教職員に対する勤務評定、政治活動の制限、争議行為の禁止などがふくまれていたため、教職員会をはじめ多くの民主団体はこれを復帰運動つぶしだとして法案に反対しました。

●コザ反米騒動
 1970(昭和45)年12月19日夜11時過ぎ、米兵が道路横断中の沖縄住民をひいて怪我を負わせました。事故処理にあたったMP(エムピー・米軍憲兵隊)に対して、住民たちが不当な処理をしないよう抗議すると、MPは群衆に向かって威嚇発砲したため、群衆の反米感情は一気に爆発しました。群衆は米国人車両をひっくり返し、次々と火を放って燃やしました。完全武装の米兵と警官が出動し鎮圧にあたりましたが、騒動は6時間にもおよび、米国人車両73台、嘉手納基地雇用事務所や米人小学校3棟が焼かれる被害を受けました。

●毒ガス移送
 1969(昭和44)年7月8日、沖縄本島中部の知花(ちばな)弾薬庫で毒ガス漏れの事故が発生しました。この事故で米兵ら24人が中毒症になり病院に収容されましたが、事故は極秘扱いでした。当局の処置に不満を持った軍関係者によってマスコミに知られることになりましたが、ランパート高等弁務官は屋良主席に対し、被害はあくまでも軽度であると伝えました。
 しかし後日、米国防省は沖縄に貯蔵している毒ガスがサリンやマスタードガスなど致死性の高いガスであることを認め、内外に波紋を広げました。これによって、毒ガス兵器の撤去運動がおこなわれ、毒ガスは太平洋上のアメリカ領ジョンストン島へ移送されることになりました。
 1971(昭和45)年1月、米軍の天願(てんがん)桟橋から移送が開始されました。その間、知花弾薬庫から天願桟橋までの沿線では、住民約5000人が避難する中、移送作業が連日おこなわれました。


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