戦後沖縄/戦後沖縄キーワード 2/4

●シーツ政策
シーツ軍政長官は軍施設を整理し、機能的な軍事基地の建設を進めました。また土地所有権の認定や不要軍事基地の解放、民間企業設立の促進、バス事業の開設、教育施設の改善など、戦後沖縄の復興計画を具体的に推進しました。琉球大学も1950(昭和25)年に開学しました。さらに統治機構改革にも積極的にとりくみ、各群島の軍政府を統括する琉球軍政本部を設置し、民衆の反発をかっていた軍人・軍属を更迭しました。これによって住民自治の障害となっていた各群島の軍政府の権限を縮小したのです。
しかし、シーツ善政とも呼ばれたこれらの政策は、本格的な軍事基地の建設と並行してすすめられたもので、沖縄を恒久的に米軍の統治下におくための政策にほかなりませんでした。

●琉球列島米国民政府
4地域の群島政府をまとめる中央政府の必要性を打ちだした米国政府は、沖縄の統括機関を軍政府から琉球列島米国民政府(USCAR)に変更しました。米国民政府の実務は、琉球軍司令部司令官が民政副長官として執務することになりました。

●奄美諸島の返還
奄美諸島も戦後は本土と行政分離され、沖縄と同じく米軍統治下におかれていました。奄美諸島でも独自の復帰運動を展開、奄美住民の99.8%におよぶ署名請願、本土在住者の街頭運動による300万人署名、総決起大会、国際連合、米国大統領への陳情など、広く国民運動を展開して全世界に訴えました。そして1953(昭和28)年12月25日、奄美諸島は8年間の米国政権下から日本本土に復帰しました。

●琉球政府
司法・立法・行政の三権を備えた自治機構として、米国民政府の意向で創立されました。琉球政府の権限は、琉球における政治の全権を行使することができると定められていましたが、実質的な統治権限は米国民政府と琉球軍司令部がにぎっていました。

●土地の強制収容
米国民政府は囲いこんだ広大な軍用地の土地の賃貸契約をむすぶため、1952(昭和27)年11月、「契約権」という布告を公布しました。しかし、9坪でコーラ1本代という安い借地料で、しかも20年使用という内容だったため、地主たちは契約に応じませんでした。これに対し米国民政府は、契約が成立しなくても土地使用が可能であることを一方的に取り決め、1953(昭和28)年に土地収用令を公布して無理やり土地を奪う非常手段をとったのです。

●銃剣とブルドーザー
米軍の強制的な土地収用を表現する際に使われる言葉。米軍は、立ち退きに抵抗する住民を銃剣で排除し、家財道具を持ち出す暇もあたえないほど強制的に、ブルドーザーで畑や家屋を破壊しました。

●特需(とくじゅ)
通常、貿易以外の米軍からの特別需要のことをあらわします。低迷していた国内生産力を回復させ、日本経済を大きく発展させました。沖縄の米軍基地建設にかかわったのは、日本本土の業者を中心に、アメリカ、香港、台湾、沖縄の建設会社でした。特に本土の建設会社は、政府が積極的に資金融資をしたこともあり、業者全体の半数以上を占め、膨大な利益をあげていました。

●「土地を守る四原則」
米国民政府による軍用地料一括払いの発表を受け、「軍用地処理に関する請願」を全会一致で決議しました。その内容は1. 地代の一括払い反対、2. 使用中の土地について適正補償、3. 米軍から受けた損害に対する賠償要求、4. 新規接収反対、の4点からなるもので、これがいわゆる「土地を守る四原則」といわれるものです。

●プライス勧告
沖縄側の要請を受けて米国下院軍事委員会は、メルヴィン・プライス議員を団長とする調査団を沖縄に派遣しました。沖縄の基地を三日間だけ視察した調査団の報告内容は、「米軍にとって沖縄は極東の軍事基地としてもっとも重要地域である。住民による国家主義的な運動も見られず、長期の基地保有も可能で、核兵器を貯蔵し、使用する権利を外国政府から制限されることもない。米国は軍事基地の絶対的所有権を確保するためにも、借地料を一括して支払い、特定地域については新規接収もやむを得ない」とするもので、このプライス勧告(報告書)は沖縄住民に衝撃をあたえました。

●オフリミッツ
オフリミッツとは米軍によって出される指令で、米軍人・軍属・家族が民間地域へ出入りすることを禁止する内容です。米軍に対する沖縄住民のデモや抗議集会などのトラブルを避けることを名目としましたが、実際は基地に依存している地域へ経済的ダメージをあたえるという意味あいがありました。特に基地依存の強かった沖縄本島中部地域は、この処置をもっとも恐れていました。


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