戦後沖縄/戦後沖縄キーワード | 1/4 |
●屋嘉(やか)捕虜収容所 金武町屋嘉区にあった、日本軍の捕虜を収容する最大規模の収容所。本土出身兵5000人をはじめ、朝鮮、沖縄出身の兵をあわせて約7000人が収容されていました。 ●沖縄諮詢会(おきなわしじゅんかい) 米国軍政府によって設置された、アメリカ式の中央政府機構設置のための準備機関。委員は15人で、教職出身者や報道関係者などが大半を占めていました。委員長には志喜屋孝信(しきやこうしん)が選ばれました。 ●沖縄民政府 沖縄諮詢会(おきなわしじゅんかい)が1946(昭和21)年には沖縄民政府となり、同時に沖縄議会も設置されました。民政府の初代知事には志喜屋孝信(しきやこうしん)が任命されました。 ●群島政府 奄美・沖縄・宮古・八重山の4つの地域におかれた民政府は、1950(昭和25)年に群島政府に改められ、それぞれの地域で選挙による知事と議会議員が選出されるようになりました。しかし民衆の意志はあくまでも軍政の範囲内でしか反映されませんでした。 ●戦果(せんか) 米軍統治下の沖縄には、アメリカからの配給食糧品がありましたが、相変わらず人々は貧しく、慢性的な食糧難で苦しんでいました。そのため、米軍の食糧集積所などから物資を盗み出す人も多く、それを「戦果」と称していました。 ●B型軍票(B円) 戦前の日本円と等価交換されたのが米軍政府発行のB型軍票(B円)で、しばらくは戦後の日本政府が発行した円(新円)と同時に使用されていました。1948(昭和23)年から1958(昭和33)年の間は新円の流入・流通が禁止され、B型軍票が唯一の法定通貨として使用されていました。 ●密貿易 米軍占領下では、密貿易も盛んにおこなわれていました。沖縄戦の残骸である砲弾などの鉄クズを、台湾や香港へ運び、日用雑貨品と交換し、本土へは米国製の医薬品などを持ち込み、鍋や食器類などと交換していたのです。とりわけ宮古・八重山地域では、米軍からの援助が遅れたこともあって密貿易が盛んでした。教科書やノート、平和憲法の条文さえ密貿易で手に入れていたのです。すべてが生きるための知恵であり、行動力でした。 ●カンカラ三線(サンシン) 戦争によってすべてを失い、明日への不安を抱える生活の中でも、沖縄の人々は三線や歌を心のよりどころとしました。満足な楽器もなかった当時、配給物資の空缶に棒きれや木の枝、パラシュートのヒモなどを取り付けて作られたのが、カンカラ三線です。 |
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