戦後沖縄/敗戦と米軍占領 3/4

■戦後政治のはじまり

 米国軍政府は沖縄諮詢会(おきなわしじゅんかい)の業績をふまえ、1946(昭和21)年4月、沖縄諮詢会を沖縄民政府に改称し、民政府知事に志喜屋孝信(しきやこうしん)を任命しました。また、議会を設置し議員も任命しました。米軍政府の意向で政治、行政機構が強引につくられていったのです。米軍のいう「軍政府はネコで沖縄はネズミである。ネズミはネコの許す範囲でしか遊べない」という言葉にあらわれているように、住民の自治権はかなり制限されたものになったのです。
 1950(昭和25)年には、奄美群島、沖縄群島、宮古群島、八重山群島の4地域の政府が群島政府に改められ、公選による知事と議会議員が選ばれましたが、住民の意志はあくまでも軍政の範囲内でしか反映できませんでした。
 そのころの米軍は、沖縄を日本本土から切り離して占領しながらも、アメリカ本国の国務省が沖縄における基地の恒久使用に反対していたため、1949(昭和24)年末まで明確な統治政策を打ちだすことができずにいました。そのため、沖縄は「忘れられた島」とよばれる保留状態で、戦後の混乱状態が続いていました。
 いっぽう、1946(昭和21)年に日本国憲法が公布された日本本土では、占領下でありながらも民主的な国家が誕生していました。しかし、沖縄住民は食糧難に苦しみ、米兵の横暴に怯え、言論・集会の自由はなく、住民自治の選挙権すらありませんでした。このような状況の中から、本土からのひきあげ者とともに自治権拡大運動がはじめられたのです。
 1947(昭和22)年5月には、戦後初の全島規模の政治集会「沖縄建設懇談会」が開かれ、沖縄民政府知事あてに、民衆の意志が反映できる議会の設置や道徳の高揚、物資配給の適正化などを求める要求書が提出されました。これをきっかけに、沖縄民主同盟が結成され、沖縄人民党、沖縄社会党が結成されました。軍政府は、市町村長と市町村議員の選挙は認めますが、知事と議会議員選挙の実現には消極的でした。それどころか配給物資の停止や食料品の値上げなどを強行し、沖縄議会を解散させるなど、横暴な手段で抑圧してきました。この騒動で住民の自治権拡大への要求は、さらに大きな政治運動へ発展していくことになりました。



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