1950(昭和25)年9月に実施された群島知事選挙では、日本への復帰を強く主張するメンバーが当選しました。この選挙結果を受けて政党の再編成が進み、日本復帰促進を党の基本政策とする沖縄社会大衆党(社大党)が結成されました。
各群島政府知事が選出されたあと、米国政府は沖縄の統括機関を軍政府から琉球列島米国民政府(USCAR・ユースカー)に変更し、統治方式として中央政府・群島政府・市町村という3段階による連邦制度的な組織にすることを提示しました。
しかし日本復帰をめざす各群島政府の存在は米国にとって目ざわりであったため、1951(昭和26)年4月には恒久的な中央政府ができるまでの機関として、立法・司法・行政の三権を備えた琉球臨時中央政府を設置しました。この臨時中央政府が登場したため、各群島政府は有名無実な組織となってしまったのです。
1952(昭和25)年3月には、住民による直接選挙で立法院議員選挙が実施され、復帰促進派が多数を占めました。これに危機感を抱いた米国民政府は4月1日、琉球政府を発足させると、初代行政主席に比嘉秀平(ひがしゅうへい)を任命しました。住民の希望した公選による主席誕生はなく、また、公選で選出されていた各群島政府も解消されました。
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