戦後沖縄/米軍民政府統治と自治権拡大闘争 1/4

■シーツ政策とサンフランシスコ条約

 アメリカ政府は沖縄に対して、ガリオア資金(占領地域救済基金)に引き続き、1949(昭和24)年からはエロア資金(経済復興援助資金)を導入し、本格的な経済援助をスタートさせました。
 さらに米軍は、停滞していた軍政の秩序回復をはかるため、琉球軍指令部(通称 Rycom・ライカム)の司令官にシーツ少将を配置して、軍政長官を兼任させました。シーツ軍政長官は沖縄の恒久統治と基地建設を目標に、次々と政策を遂行していきました。彼の進めた政策を沖縄の住民のほとんどは友好的に受けとめ、「シーツ善政」と称していました。
 シーツ軍政長官はまず第1に、乱立した基地施設を整理統合し、高度に機能化された基地の建設を進めました。第2に社会福祉の充実をはかりました。第3に住民の自治を公認し、各群島の軍政府の権限を縮小、知事と議員の選挙を実施しました。また、1950(昭和25)年12月にアメリカ極東軍司令部から出された指令にもとづき、米国軍政府を解消して米国民政府(通称USCAR・ユースカー)を設立しました。
 1951(昭和26)年9月、米国の提案で52カ国の代表がサンフランシスコに集まり、日本に対する講和会議が開かれました。日本では中国・ソ連をふくめた全交戦国との講和を要求する運動が高まっていましたが、吉田茂首相らはこれらの意見をおしきって講和会議に参加し、48カ国と講和条約を締結しました(サンフランシスコ講和条約)。
 この条約の第3条は、沖縄・奄美に対する米国の統治権に関する条文であったため、沖縄はこれに反対し、3カ月の間に有権者の7割もの署名を集めましたが、日米両政府はこの行動を無視しました。日本は同時に日米安全保障条約をも締結し、1952(昭和27)年4月28日、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が発効して日本は独立しました。
 沖縄は日本から分離され、米国のアジア戦略の最重要基地としての役割を強めていくことになります。



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