戦後沖縄/米軍民政府統治と自治権拡大闘争 3/4

■戦略基地沖縄

 1950年代の沖縄は、米ソの対立激化を象徴するかのように、基地建設が急ピッチで進行していきました。米国民政府はサンフランシスコ講和条約の発効と前後して、沖縄の軍用地の借地契約を進めました。それ以前は、占領地である沖縄の軍用地は米軍が無償で使用していたのですが、1946(昭和21)年からはじまった土地所有権認定作業の進展により、住民側からも軍用地料の支払い要請がなされるようになってきました。
 サンフランシスコ講和条約が発効し、土地の無償使用の根拠がなくなった米軍は、沖縄住民と土地使用契約をおこなわなければならなくなりました。米国民政府は1950(昭和25)年7月にさかのぼって地代を払うことを約束しました。ところが、米国民政府の契約案があまりにも低価格であったため、契約作業は難航を極めました。
 思惑どおりの契約にいたらなかった米国民政府は、1953(昭和28)年4月に土地収用令を発令。立退きを拒否する住民を銃剣でおどし、ブルドーザーで土地建物をこわしていくという、武力行使による土地の強制収用を続けていきました。
 このように沖縄に出現した巨大な軍事基地は、土地をなくした住民の雇用の場ともなり、産業基盤の弱い、消費中心のいびつな構造をつくりあげることになりました。



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