近代沖縄/琉球処分 6/8

■廃藩置県

 1875(明治8)年、明治政府は「琉球処分」の方針をかためると、琉球藩に対して「琉球の王国制度を解体し、日本に属する沖縄県とする」ことを伝え、同年には処分官・松田道之(まつだみちゆき)を派遣して次のような命令をいいわたしました。

 第一に、 清国との冊封・朝貢関係を廃止して中国と断絶すること、
 第二に、 新制度や学問を学ぶための若手官吏を派遣すること、
 第三に、 日本の他府県にならって政治制度をあらためること、
 第四に、 これらの改革を混乱なく実施するために鎮台分営(軍事施設)を設置すること、


尚泰王


松田道之

 これを受けた琉球藩は何の対策もみいだせず、日清両属的な状態を従来通り維持したいと嘆願するのみでした。琉球の支配層の多くは、琉球が日本に帰属するとみずからの地位や身分、財産が危うくなるのではないかと考えていたのです。
 しかし、明治政府は、説得によっては琉球藩の対応がかわらないと判断し、藩王の逮捕をともなう武力行使による処分を決定しました。
 1879(明治12)年3月末、政府の命を受け、警官と軍隊をひきいて来琉した松田は、「琉球藩を廃して沖縄県を設置する」ことを王府に通達しました(廃藩置県)。これにより、旧琉球王国の土地・人民およびそれに関するすべての書類は政府に引き渡されました。そして、藩王の尚泰(しょうたい)は華族の身分をあたえられ、東京に居住を命じられました。500年もの長きにわたる琉球王国はここに、崩壊することになったのです。



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