近代沖縄/「ソテツ地獄」下の沖縄 2/4

■海外移民と出稼ぎ

 貧しさにあえぐ人々は、島国である沖縄で新たな土地を得ることもできず、その活路を県外に見いださなければなりませんでした。
 1899(明治32)年、沖縄初の海外移民は、当山久三(とうやまきゅうぞう)らの努力によって送りだされた26人のハワイ移民で、7年後にはハワイを中心に4670人にも達するほど増加しました。「ソテツ地獄」によって沖縄から出て行った人々は、1923(大正12)〜1930(昭和5)年にかけての人々で、その数は日本全体の移民の約1割におよぶほどでした。
 このような海外移民から沖縄の家族への送金は高額にのぼり、県民をはじめ県経済にとっても大きな支えとなりました。しかし、移民となった人々は、一部の成功者をのぞいて、ほとんどが辛苦に耐えながら働き続けなければなりませんでした。
 いっぽう、海外移民と時を同じくして、多くの人々が出稼ぎとして本土へ出ていきました。出稼ぎ地はほとんどが阪神方面で、おもに製糸や紡績業などの工場労働に従事しました。しかし、劣悪な条件下で働かされたり、「琉球人」とさげすまれるという屈辱を受けることも少なくありませんでした。
 沖縄出身者の多くは、このような苦境に立たされても県人会を組織したり、沖縄人労働者の地位向上を求めて活動するなど、移民先や出稼ぎ先で力強く生き抜きました。


当山久三像


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