旧慣諸制度の改革を求める沖縄民衆運動が盛り上がると、県当局も改革を実行に移さざるを得なくなりました。
そのような時期に知事に就任した奈良原繁(ならはらしげる)は、まず王府の指導下で農民が管理、利用した共有山林である杣山(そまやま)の開墾を許し、貧窮士族の救済策としました。この開墾計画をおし進めたのが、農民出身で第一回県費留学生の謝花昇(じゃはなのぼる)でした。
この政策に対し農民のあいだからは、山林伐採による自然破壊や資材不足を恐れて不満の声が上がりましたが、謝花は「耕地にしてもさしつかえない場所であれば、貧しい士族を救うためには必要である」と、農民を説得する立場をとりました。
しかし、実際におこなわれた開墾策は下級士族の救済とは名ばかりで、有力士族や本土の商人、高級役人に優先的に払い下げられました。このような沖縄人(ウチナーンチュ)差別をともなった奈良原施政に強い不信感を抱いた謝花は、県庁を辞職し、政治結社「沖縄倶楽部」を組織して奈良原施政を攻撃しました。また同時に、自治権・参政権獲得運動を展開して専制政治の変革をはかりました。
奈良原県政をしぶとく攻撃する沖縄倶楽部に対し、奈良原をはじめ旧支配層は権力を持って弾圧しました。その結果、沖縄倶楽部は消滅し、職と財産を失った謝花は1908(明治41)年、不遇のうちにこの世を去ってしまいました。
謝花らのおこなった民権運動は未解明の部分が多く、はっきりとした評価が定まっていません。しかしながら、沖縄ではじめて農民を主体とした政治結社を組織し、その政策を県政に反映しようとした意義は大きいといえるでしょう。
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